Feb 2008
12:カナダの夏休み 〜恐怖編その2〜
28/02/08 12:39 Filed in: 落ちこぼれからの復旧
夏休みは長かった。二ヶ月とちょっとはあったような気がする。そんなに長くてもやることがないので、私はトロントで夏休みを過ごそうと決めた。
最初はオンタリオプレイスという遊園地みたいな所でアルバイトが決まっていたが、ビザが間に合わず研修だけ2日受けて結局バイトはできなかった。
そこで夏休み中プラプラする事に決めた。トロントはキッチェナーに比べるとすごく都会で楽しかった。日本人も沢山いた。久しぶりの日本語に心が温まった。トロント大学の寮は夏休みの間解放されていたので、そこに住む事にした。シャワーとトイレが男女兼用だったのが嫌だった。
ジムの夏休み学生会員になり、毎日そこで暇をつぶした。中古自転車を買い、その自転車でトロントの街中を自由に駆け巡った。
そしてトロントで出会った忍ちゃんを説得し、二人で自転車に乗り、トロントからナイアガラまでの旅をする事となった。
車で行くと高速を通って約二時間、片道130kmの道のりだった。自転車は一般道を通って行くので片道150kmという所だろうか。道中2泊してナイアガラまで辿り着いた。自転車用のショーツは着ていたが、途中でお尻が痛くなった。ナイアガラでぷらっとした後、忍ちゃんは勇気をだして私に「バスで帰ろう」と言ったが、私はまたまた忍ちゃんを説得して、自転車でトロントまで戻ることにした。
帰りは道に迷い雨が降っていた。コンディションは最悪だった。私は忍ちゃんがまたバスで帰ろうと言いだすのを恐れ、次は私が勇気をだして言った「ハイウェイに乗ろう!」忍ちゃんは疲れ果てていたので判断力が鈍っていた。私に言われるがまま自転車でハイウェイに乗り、私たちは高速で車が通り抜けて行く中ヘルメットをかぶり駆け抜けた。今思えば青春の1ページである。しかし、想像できるであろうか?高速道路を自転車で通行することを?
私たちは何度もクラクションを鳴らされ、後悔の念がよぎる中、一歩間違えば死んでしまうという恐怖を感じながらひたすら駆け抜けた。
あの時忍ちゃんはきっと人生最大の後悔をしていただろう。
生死の境を共にした忍ちゃんは今頃何をしているのだろうか?
最初はオンタリオプレイスという遊園地みたいな所でアルバイトが決まっていたが、ビザが間に合わず研修だけ2日受けて結局バイトはできなかった。
そこで夏休み中プラプラする事に決めた。トロントはキッチェナーに比べるとすごく都会で楽しかった。日本人も沢山いた。久しぶりの日本語に心が温まった。トロント大学の寮は夏休みの間解放されていたので、そこに住む事にした。シャワーとトイレが男女兼用だったのが嫌だった。
ジムの夏休み学生会員になり、毎日そこで暇をつぶした。中古自転車を買い、その自転車でトロントの街中を自由に駆け巡った。
そしてトロントで出会った忍ちゃんを説得し、二人で自転車に乗り、トロントからナイアガラまでの旅をする事となった。
車で行くと高速を通って約二時間、片道130kmの道のりだった。自転車は一般道を通って行くので片道150kmという所だろうか。道中2泊してナイアガラまで辿り着いた。自転車用のショーツは着ていたが、途中でお尻が痛くなった。ナイアガラでぷらっとした後、忍ちゃんは勇気をだして私に「バスで帰ろう」と言ったが、私はまたまた忍ちゃんを説得して、自転車でトロントまで戻ることにした。
帰りは道に迷い雨が降っていた。コンディションは最悪だった。私は忍ちゃんがまたバスで帰ろうと言いだすのを恐れ、次は私が勇気をだして言った「ハイウェイに乗ろう!」忍ちゃんは疲れ果てていたので判断力が鈍っていた。私に言われるがまま自転車でハイウェイに乗り、私たちは高速で車が通り抜けて行く中ヘルメットをかぶり駆け抜けた。今思えば青春の1ページである。しかし、想像できるであろうか?高速道路を自転車で通行することを?
私たちは何度もクラクションを鳴らされ、後悔の念がよぎる中、一歩間違えば死んでしまうという恐怖を感じながらひたすら駆け抜けた。
あの時忍ちゃんはきっと人生最大の後悔をしていただろう。
生死の境を共にした忍ちゃんは今頃何をしているのだろうか?
11:6ヶ月目の奇跡
26/02/08 22:01 Filed in: 落ちこぼれからの復旧
大学生活6ヶ月目に入った頃、突然みんなが何を言っているのかわかった。そしてトントン拍子に、グループの中での話も結構できるようになっていった。一緒に授業を受けている子達も話かけてくれるようになって、その中の5才年下のCorinaと気が合った。週末にはよくCorinaの家に泊まりに行っては、彼女のお父さんがご馳走を作ってもてなしてくれた。Corinaとも今でもメールで近況を報告しあっている。彼女は電撃結婚の後、電撃離婚をしてまた電撃結婚をした。
この6ヶ月目を境に私の生活は好転していった。人と知り合う機会作りに、と剣道を再開した。近くの大学の剣道部に練習に行く事になった。カナダは結構剣道人口が多く、沢山の人と知り合い、練習をして、沢山のパーティーへ参加することとなる。
ただ、やはり英語で色々な勉強をする事はまだ難しかった。テスト前には「経済が難しい」と言うとJacquiが私の教科書のテスト範囲を熟読し、要点を書き出して「これをしっかり覚えなさい」とそのノートをくれた。
JacquiとBettyは私を年下の妹のように可愛がってくれた。掃除や料理もいつも二人がやってくれて、私はいつも甘えてばかりいた。
家には犬(グリズリー)と、猫(スパズ)がいた。グリズリーの散歩だけは私がよく行った。グリズリーは大きな犬でとても賢かった。スパズは小さくてとても可愛らしかった。犬と猫なのに妙に仲が良かった。
6ヶ月目からは時が足早に過ぎていった。ビジネス英語のテストで私はクラスで最高点をとった。先生が皆の前で褒めてくれた、と同時に「あなた達英語が母国語なのにサチコに負けてどうする」と怒っていた。
皆に相手にされていない頃勉強ばかりしていたので、1年の成績はオールAだった。その学年の最優秀生徒の候補者に選ばれ、エッセイを書いて2番になった。
1番の人は賞金をもらっていたが、2番の私は名誉だけをもらった。
この6ヶ月目を境に私の生活は好転していった。人と知り合う機会作りに、と剣道を再開した。近くの大学の剣道部に練習に行く事になった。カナダは結構剣道人口が多く、沢山の人と知り合い、練習をして、沢山のパーティーへ参加することとなる。
ただ、やはり英語で色々な勉強をする事はまだ難しかった。テスト前には「経済が難しい」と言うとJacquiが私の教科書のテスト範囲を熟読し、要点を書き出して「これをしっかり覚えなさい」とそのノートをくれた。
JacquiとBettyは私を年下の妹のように可愛がってくれた。掃除や料理もいつも二人がやってくれて、私はいつも甘えてばかりいた。
家には犬(グリズリー)と、猫(スパズ)がいた。グリズリーの散歩だけは私がよく行った。グリズリーは大きな犬でとても賢かった。スパズは小さくてとても可愛らしかった。犬と猫なのに妙に仲が良かった。
6ヶ月目からは時が足早に過ぎていった。ビジネス英語のテストで私はクラスで最高点をとった。先生が皆の前で褒めてくれた、と同時に「あなた達英語が母国語なのにサチコに負けてどうする」と怒っていた。
皆に相手にされていない頃勉強ばかりしていたので、1年の成績はオールAだった。その学年の最優秀生徒の候補者に選ばれ、エッセイを書いて2番になった。
1番の人は賞金をもらっていたが、2番の私は名誉だけをもらった。
10:わからない英語
25/02/08 12:59 Filed in: 落ちこぼれからの復旧
日本の新学期は4月だが、カナダの新学期は9月だった。意欲に燃えまくり大学へ行った。やはり自分で貯めたお金で通うのは、重みが違う。が、始まって間もなく非情にも先生方はストへ突入した。しかも数日、とかでなく、それは2ヶ月近く続いた。勉強する為に遥々海を渡って行った私にとっては、非常事態だった。JacquiとBettyは仕事があるし、他に誰も知っている人もいないし、やることもないし、お金は使えないし。私は途方に暮れた。
が、時は過ぎていき、昼ドラなどを見ては新しい言葉を覚えたりしているうちに、学校は再開された。
授業では、マーケティング、会計、ビジネス数学、コンピューター、経済、ビジネス英語、心理学等を勉強した。一番やっかいだったのが心理学だった。難しい言葉がいっぱいでてきて訳がわからなかった。しかも先生の言う事はだいたいわかるのだが、クラスメートが話す若者言葉がちっとも理解できず、クラスの皆が笑っているのに、私だけ笑う事ができずにいた。
留学生はそのキャンパスで私一人だった。日本人は誰一人いる筈もなく、苦しみを分ち合う人はいなかった。
英語は一対一で話すことはできるのだが、グループになるとやっかいだった。話を聞きながら、次これ言おう、と思ったときには次の話題へと移っている。完璧に何の話かわからなくなってボーッとしていると、祥子はどう思う?とか聞かれて、返事に困る事も度々あった。
自分が駄目な人間に思えた。私はただひたすら毎日勉強に明け暮れて、自分の駄目さを忘れようとした。
が、時は過ぎていき、昼ドラなどを見ては新しい言葉を覚えたりしているうちに、学校は再開された。
授業では、マーケティング、会計、ビジネス数学、コンピューター、経済、ビジネス英語、心理学等を勉強した。一番やっかいだったのが心理学だった。難しい言葉がいっぱいでてきて訳がわからなかった。しかも先生の言う事はだいたいわかるのだが、クラスメートが話す若者言葉がちっとも理解できず、クラスの皆が笑っているのに、私だけ笑う事ができずにいた。
留学生はそのキャンパスで私一人だった。日本人は誰一人いる筈もなく、苦しみを分ち合う人はいなかった。
英語は一対一で話すことはできるのだが、グループになるとやっかいだった。話を聞きながら、次これ言おう、と思ったときには次の話題へと移っている。完璧に何の話かわからなくなってボーッとしていると、祥子はどう思う?とか聞かれて、返事に困る事も度々あった。
自分が駄目な人間に思えた。私はただひたすら毎日勉強に明け暮れて、自分の駄目さを忘れようとした。
9:恐怖の魚釣り
22/02/08 10:56 Filed in: 落ちこぼれからの復旧
カナダについて間もなく、JacquiとJacquiの彼Edがキャンプに連れて行ってくれた。目的地に着き、夕食の準備までには時間があったので、湖で魚釣りをしようということになった。カナダの湖は海のようだった。Edは私にやり方を教えてくれた。それじゃあ、と釣り竿をふり、釣り糸と重りを投げ込んだ。魚釣りはあれが最初で最後だったので、なに釣りか等は全然わからない。とにかく遠くをめがけて竿をふった。次の瞬間なにがあったかわからなかった。ブーメランのようにその釣り針と重りは私の方へ戻って来て、私の瞼につきささったのだった。慌てたJacquiとEdは私を毛布にくるみ、車に乗せ、救急病院へと運んだ。短い道中だったが、心配が頂点に達したからか、私の瞼についた物が気持ち悪くてたまらなかったのかJacquiは気分が悪くなり、車を止めてゲロっていた。それでもなんとか病院へ辿り着き、私は手術台に乗せられ、ほんの3分位でお医者さんは上手に針をとってくれた。私の瞼にはよく見ると小さな穴があいていた。幸い目には傷ひとつついていなかった。私たちの魚釣りはほんの5分で終了し、2度と魚釣りをすることはなかった。この先も、魚は食べても一生魚釣りだけはしないだろう。その後Jacquiは、あの恐怖の重りをお守りがわりにずっともっていて、時々私に見せてくれた。
8:岩田屋へ舞い戻り、カナダへ旅立つ
21/02/08 08:57 Filed in: 落ちこぼれからの復旧
帰国するとすぐ、岩田屋へ出勤した。半年前にはちょうどよかった制服が、ボタンがややはちきれそうな位ピチピチだった。まず人事に行き復職する部署を聞かなければならなかった。誰にも言わなかったが内心私は期待していた。海外買い付けとか、英語を活かせる部署だとか…その期待は玉砕された。私はハンカチ売り場に戻された。今思えば当たり前の事だ。気を取り直し、休職扱いにしてくれた上司の為にも、暫くは頑張って働く事にした。また同じ生活が始まった。
そんなある日、岩田屋ではブリティッシュフェアが開催され、イギリスからバグパイプやなんやかの職人さん達がやって来て、その腕前をお客様の前で披露するというイベントが一週間だと思うが、開催された。私はその中の一人でロンドンバッジや刺繍をするHilaryの通訳についた。Hilaryは私より15才位年上で、初対面の時は怖かった。フェアの間毎日、私は仕事が終わるとイギリス人軍団を福岡の街へ連れ出した。定休日にはグルグルと福岡を案内した。とても楽しい一週間だった。通訳は難しかった。半分はったりでやった所もあったような気がする。あれが大金のかかった交渉事だったらと思うとぞっとするが、そんな事を任されるはずはなかった。一週間が終わる頃、Hilaryと私はとても仲良くなった。その後Hilaryは私が大きな選択に迷ったとき、必ず名言を残し、私をいつも支えてくれた。
それが刺激となったのか、私は1年後にはカナダで現地の人が通う大学に学部入学しようと思った。費用を計算すると4年制大学はとても無理だったので、2年制の短大に行く事にした。入学する為にTOEFLで当時のスコアで520点以上とらなければならなかった。とりあえず現地に行って勉強しながら、という時間的金銭的余裕のなかった私は、必死に勉強してTOEFLぎりぎり520点を取得した。勉強方法は、本屋でTOEFL500点突破!みたいな本を一冊購入し、その一冊をじっくり頭の中に叩き込んだ。入学条件は、そのTOEFLスコアと高校の成績証明書が必要だった。高校卒業しといてよかったと、あの暗い高校生活を思い出した。入学手続きは代行を頼むとお金がかかるので全て自力でやった。留学先はBettyとJacquiの住む街にしようと決めた。寮に住むよう申し込んだのだが、そう報告するとJacquiは勝手に学校へ行き、私の寮の契約を白紙に戻し、私たちと一緒に住みなさいと言い放った。
両親はもう反対しなかった。祥子が決めた事だから大丈夫だろう、と言ってくれた。岩田屋の人たちも気持ちよく、中州のクラブを貸し切って盛大な送別会で送り出してくれた。
岩田屋の人たちは本当にやさしく良くしてくれた。宴会の時は日本一楽しかった。沢山の色々な事を私にやさしく教えてくれた。
ということで復職から1年後,カナダはオンタリオ州のKitchenerという大きくも小さくもない町のConestoga Collegeでビジネスの勉強を2年間する事となった。ビジネスにした理由は自分の英会話学校を始めたい、という気持ちからだった。トロント空港へBettyとJacquiがはりきって迎えに来てくれ、私のカナダ生活が始まった。
そんなある日、岩田屋ではブリティッシュフェアが開催され、イギリスからバグパイプやなんやかの職人さん達がやって来て、その腕前をお客様の前で披露するというイベントが一週間だと思うが、開催された。私はその中の一人でロンドンバッジや刺繍をするHilaryの通訳についた。Hilaryは私より15才位年上で、初対面の時は怖かった。フェアの間毎日、私は仕事が終わるとイギリス人軍団を福岡の街へ連れ出した。定休日にはグルグルと福岡を案内した。とても楽しい一週間だった。通訳は難しかった。半分はったりでやった所もあったような気がする。あれが大金のかかった交渉事だったらと思うとぞっとするが、そんな事を任されるはずはなかった。一週間が終わる頃、Hilaryと私はとても仲良くなった。その後Hilaryは私が大きな選択に迷ったとき、必ず名言を残し、私をいつも支えてくれた。
それが刺激となったのか、私は1年後にはカナダで現地の人が通う大学に学部入学しようと思った。費用を計算すると4年制大学はとても無理だったので、2年制の短大に行く事にした。入学する為にTOEFLで当時のスコアで520点以上とらなければならなかった。とりあえず現地に行って勉強しながら、という時間的金銭的余裕のなかった私は、必死に勉強してTOEFLぎりぎり520点を取得した。勉強方法は、本屋でTOEFL500点突破!みたいな本を一冊購入し、その一冊をじっくり頭の中に叩き込んだ。入学条件は、そのTOEFLスコアと高校の成績証明書が必要だった。高校卒業しといてよかったと、あの暗い高校生活を思い出した。入学手続きは代行を頼むとお金がかかるので全て自力でやった。留学先はBettyとJacquiの住む街にしようと決めた。寮に住むよう申し込んだのだが、そう報告するとJacquiは勝手に学校へ行き、私の寮の契約を白紙に戻し、私たちと一緒に住みなさいと言い放った。
両親はもう反対しなかった。祥子が決めた事だから大丈夫だろう、と言ってくれた。岩田屋の人たちも気持ちよく、中州のクラブを貸し切って盛大な送別会で送り出してくれた。
岩田屋の人たちは本当にやさしく良くしてくれた。宴会の時は日本一楽しかった。沢山の色々な事を私にやさしく教えてくれた。
ということで復職から1年後,カナダはオンタリオ州のKitchenerという大きくも小さくもない町のConestoga Collegeでビジネスの勉強を2年間する事となった。ビジネスにした理由は自分の英会話学校を始めたい、という気持ちからだった。トロント空港へBettyとJacquiがはりきって迎えに来てくれ、私のカナダ生活が始まった。
7:残り2ヶ月 クージービーチとアパート暮らし
20/02/08 08:50 Filed in: 落ちこぼれからの復旧
3キロ太ってシドニーへ戻った私がまず最初にしたことは引っ越しだった。引っ越しといっても、大きなバッグ一つしかなかったので、バスに乗って引っ越し先に行っただけだったが…旅行に一緒に行った久美子が間もなく帰国するということで、そのアパートに空き部屋がでる。見てみるとクージービーチまで水着のまま歩いて行け、楽しそうなお店なんかもある町で、一目で気に入った。ジョンソン夫妻の所で居候するのも少し気が咎めていたので、即決した。ジョンソン夫妻は私が出て行くというので心配されたが、居心地はとても良く快適に過ごせた事、友達の所で暮らしたいという事、を説明すると納得し笑顔で送り出してくれた。
そのアパートには、久美子と久美子の友達の日本人とその友達のオーストラリア人とが住んでいた。私が引っ越して間もなく、コンティキツアーで知り合ったカナダ人のBettyが転がりこんできた。Bettyは仕事を辞めて長期旅行で親友のJacquiとオーストラリアに来ていたので、彼女も自由気ままだった。Jacquiは仕事があるのでツアーの後帰国した。
という事で、不思議な共同生活が始まった。日本ではあまり浸透していないが、海外では家賃を少しでも安く上げるため、アパートをシェアするのは常識だ。
久美子が帰国し、残りの2ヶ月はBettyといつも一緒に遊んだ。ビーチに行ってボーっとしたり、その横にある無料のプールでアップアップしたり。Bettyは私に沢山の英語のシャワーを浴びせてくれた。私もお返しに日本語シャワーを浴びせようと思ったが、興味がないらしく「おはよう」だけ覚えた程度だった。Bettyは常識あるカナダ人でとても気があった。Bettyとの交流は帰国後もずっと続いて行くこととなる。その話は今後カナダ編の所にでてくることとなるが、今でも良い友達で、カナダに行く時には必ず会うし、メールのやりとりもしている。ひょんな出会いから20年間も絶えず交流が続いているのは奇跡のようなものだ。大切な出会いに感謝する。
たっぷりと時間があり、ストレスは一つもなく、とても自由な生活はあっという間に過ぎて行った。「このまま時よ止まれ!」と思っても止まるわけはなかった。
帰国の日が来て、私は6ヶ月で6キロ太った体で、シドニーを泣く泣く後にした。その際パスポートをシャツの中に入れる事はもうしなかった。
そのアパートには、久美子と久美子の友達の日本人とその友達のオーストラリア人とが住んでいた。私が引っ越して間もなく、コンティキツアーで知り合ったカナダ人のBettyが転がりこんできた。Bettyは仕事を辞めて長期旅行で親友のJacquiとオーストラリアに来ていたので、彼女も自由気ままだった。Jacquiは仕事があるのでツアーの後帰国した。
という事で、不思議な共同生活が始まった。日本ではあまり浸透していないが、海外では家賃を少しでも安く上げるため、アパートをシェアするのは常識だ。
久美子が帰国し、残りの2ヶ月はBettyといつも一緒に遊んだ。ビーチに行ってボーっとしたり、その横にある無料のプールでアップアップしたり。Bettyは私に沢山の英語のシャワーを浴びせてくれた。私もお返しに日本語シャワーを浴びせようと思ったが、興味がないらしく「おはよう」だけ覚えた程度だった。Bettyは常識あるカナダ人でとても気があった。Bettyとの交流は帰国後もずっと続いて行くこととなる。その話は今後カナダ編の所にでてくることとなるが、今でも良い友達で、カナダに行く時には必ず会うし、メールのやりとりもしている。ひょんな出会いから20年間も絶えず交流が続いているのは奇跡のようなものだ。大切な出会いに感謝する。
たっぷりと時間があり、ストレスは一つもなく、とても自由な生活はあっという間に過ぎて行った。「このまま時よ止まれ!」と思っても止まるわけはなかった。
帰国の日が来て、私は6ヶ月で6キロ太った体で、シドニーを泣く泣く後にした。その際パスポートをシャツの中に入れる事はもうしなかった。
6:憧れのシドニー ホームステイと大旅行
19/02/08 11:43 Filed in: 落ちこぼれからの復旧
シドニー滞在三ヶ月目に突入する頃、以前からジョンソン夫妻に「うちで暮らしなさい」と言って貰っていたので、もう下宿の食事にもうんざりしていた私は、お言葉に甘えてホームステイをさせてもらうことにした。しかも滞在費はいらない、と言われる。それでは申し訳ないからといくらかでも出そうとすると、いらないから、と言われる。結局1セントも受け取ってくれなかった。ありがたく申し訳なく感謝の気持ちで一杯だった。
後に両親が親日家のジョンソン夫妻に立派な博多人形を送ってきてくれた。ありがたかった。
ジョンソン家に住み、その頃7才くらいだったピーター君とよく遊んだ。ピーター君は私の良き英語の先生であった。とても可愛らしく良い子だった。今頃どんなにかっこいい好青年になっているのだろうかと思い、よくよく計算してみると、もう彼も27才。時の経つのは早いものだ。
3ヶ月の英語学校が終わる頃、残りの3ヶ月をどう過ごそうかと考えた。その英語学校はなんだかいい加減経営だった。先生はよく休むし、代行はいないし、先生によってクラスが全く違うし。この時に「私だったらもっと生徒側にたった英会話学校ができるのに」と思ったのが、BJクラブの誕生の源となった。
ということで英語学校は続けず、プラプラすることに決めた。
そこで、同じクラスだった久美子と旅行に行く事にした。先ずはコンティキツアーとうい現地で扱っているツアーに参加することにした。旅行代理店で色々と決めるのだが、久美子の方が断然英語が上手だったので、私は横で、それでいいよ、とか今なんていったん?とか聞いて邪魔ばかりしていた。結局バスツアーでシドニーからケアンズまで約2週間の旅、その後解散して二人でエアーズロックとパースを巡り、インディアンパシフィック号(鉄道)に乗りパースからシドニーに戻るという壮大な旅となった。全行程一ヶ月である。
ツアーにはアメリカ、ヨーロッパ、カナダ、オーストラリア、色々な国から色々な人が参加していた。ウォータースポーツや観光、夜は毎日パーティーだった。それはそれは楽しかった。大自然を体感し、色々な人と出会い、話をし、色々な生き方や考え方がある事を知り、刺激を受けた。
その後の個人旅行の時、クリスマスの日にパースにいたのだが、殆どのお店やレストランが閉まっていた。なんにも知らなかった私たちは、飢えていた。ホテルのレストランは開いていたけど、そんな値段の高い所では食べられない。たまたまコンビニのような小さな店が開いていてクッキーが手に入り、今日の夕食はこれだねっていいながらトボトボと二人でホテルまでの道を歩いていた時、パースの空港から街まで乗せてくれたシャトルバスの運転手さんが丁度通りかかり、止まってくれた。事情を話すと、僕の行きつけの中華料理の安いお店があるからと、私たちをバスにのせ、レストランへ連れていってくれた上にごちそうまでしてくれた。世の中なんていい人ばかりなんだろう、とその時また思った。
一ヶ月の旅行を満喫し、一ヶ月で3キロ太ってシドニーへ戻った。
後に両親が親日家のジョンソン夫妻に立派な博多人形を送ってきてくれた。ありがたかった。
ジョンソン家に住み、その頃7才くらいだったピーター君とよく遊んだ。ピーター君は私の良き英語の先生であった。とても可愛らしく良い子だった。今頃どんなにかっこいい好青年になっているのだろうかと思い、よくよく計算してみると、もう彼も27才。時の経つのは早いものだ。
3ヶ月の英語学校が終わる頃、残りの3ヶ月をどう過ごそうかと考えた。その英語学校はなんだかいい加減経営だった。先生はよく休むし、代行はいないし、先生によってクラスが全く違うし。この時に「私だったらもっと生徒側にたった英会話学校ができるのに」と思ったのが、BJクラブの誕生の源となった。
ということで英語学校は続けず、プラプラすることに決めた。
そこで、同じクラスだった久美子と旅行に行く事にした。先ずはコンティキツアーとうい現地で扱っているツアーに参加することにした。旅行代理店で色々と決めるのだが、久美子の方が断然英語が上手だったので、私は横で、それでいいよ、とか今なんていったん?とか聞いて邪魔ばかりしていた。結局バスツアーでシドニーからケアンズまで約2週間の旅、その後解散して二人でエアーズロックとパースを巡り、インディアンパシフィック号(鉄道)に乗りパースからシドニーに戻るという壮大な旅となった。全行程一ヶ月である。
ツアーにはアメリカ、ヨーロッパ、カナダ、オーストラリア、色々な国から色々な人が参加していた。ウォータースポーツや観光、夜は毎日パーティーだった。それはそれは楽しかった。大自然を体感し、色々な人と出会い、話をし、色々な生き方や考え方がある事を知り、刺激を受けた。
その後の個人旅行の時、クリスマスの日にパースにいたのだが、殆どのお店やレストランが閉まっていた。なんにも知らなかった私たちは、飢えていた。ホテルのレストランは開いていたけど、そんな値段の高い所では食べられない。たまたまコンビニのような小さな店が開いていてクッキーが手に入り、今日の夕食はこれだねっていいながらトボトボと二人でホテルまでの道を歩いていた時、パースの空港から街まで乗せてくれたシャトルバスの運転手さんが丁度通りかかり、止まってくれた。事情を話すと、僕の行きつけの中華料理の安いお店があるからと、私たちをバスにのせ、レストランへ連れていってくれた上にごちそうまでしてくれた。世の中なんていい人ばかりなんだろう、とその時また思った。
一ヶ月の旅行を満喫し、一ヶ月で3キロ太ってシドニーへ戻った。
5:憧れのオーストラリア〜屋根裏部屋と水あたり
18/02/08 09:39 Filed in: 落ちこぼれからの復旧
「海外は危ない所だよ」とさんざん皆から脅されていた私は、同僚がくれた手作りの袋にパスポートを入れ、首からさげてそれをシャツの中へしまい、オーストラリアへ旅立った。チェックインや入国カードの記入でパスポートが必要な時に取り出すのがとても面倒だった。後にそんなことまでしなくていいと気づいたが、その時はビクビクしていた。ビザはワーキングホリデイを取得した。3ヶ月は英語学校だったけど、残りの3ヶ月は学校を続けるかは現地で決めようと思っていた。英語学校と下宿は、日本から手続きをして決めていた。下宿に着いてから少し説明を受け、部屋へ通された。私に割り当てられた部屋は、ベッドと机があり、ほとんど歩くスペースのない屋根裏部屋だった。気をつけてベッドから起き上がらないと、斜めになっている天井で頭を打った。私の部屋の前は皆が使用するバスルームだったので、いつもざわざわしていた。それでも生まれて初めて自分の城が持てて嬉しかった。
下宿代には朝食と夕食が含まれていた。私は好き嫌いなくなんでも食べる方だが、どうやったらあんなにまずく料理ができるのか、理解できないくらいに美味しくなかった。
下宿には、日本人、台湾人、韓国人、インドネシア人、年配のオーストラリア人等、様々な人種がいた。なるべく色々な人と話をするようにしていた。ある日、他の下宿部屋を見てみると、私の部屋より断然良かった。同じ料金なのに…下宿の責任者の所へ行き、「部屋をかえてくれ!」と言うと「丁度君に良い部屋があって、言おうと思っていたんだ」と調子の良い事を言われた。早速別の部屋へ通された。そこはまるで天国だった。今迄の3倍くらいの広さの上に屋根裏ではない。しかも角部屋で、テレビと流しまでついていた。その時私は「言った者勝ち」という言葉を実感した。
オーストラリアの水道水は悪くないと言われていた。しかし、気をつけて水道水は飲んでいなかった。歯磨きや野菜を洗った後等で、体内に入っていたのだろう。嘔吐下痢が3日くらい続き、ヘロヘロになった。福岡で知り合ったジョンソン夫人が病院へ連れていってくれ、お医者さんに薬を貰った。飲んだらケロっと治った。保険に入っていなかったので覚悟していたら、ジョンソン夫人が支払いをしてくれた。ありがたかった。
ドタバタしながらも、毎日電車に乗りハーバーブリッジを通り「いい風景だな~」と感動して学校へ行き、12人位のクラスで授業を受け(授業は悪くはなかったが、先生が風邪で休みの日はビデオだけ見せられ、なんたる手抜きと憤慨していた。)授業が終わると街をブラブラしたり、映画を見たり、船に乗ってすぐのマンリービーチへ遊びに行ったりして、シドニーを満喫した。週末にはジョンソン夫妻がキャンピングカーでキャンプに連れ出してくれた。自然と街が共存していて、オーストラリアの人達は気さくで、大変気に入りずっとここに住みたい!と思った。
英語の方は、発音が悪く簡単な言葉も通じなくて意気消沈することもあったけど、めげずに機会ある毎に喋りまくった。
実は本来、私はお喋りではなく、常に人の話を聞いている側だったのだが、少しでも上達する為無理してお喋りになる努力をした。
こうして私のシドニーでの最初の2ヶ月は、ドタバタワクワクしながら続いていった。
下宿代には朝食と夕食が含まれていた。私は好き嫌いなくなんでも食べる方だが、どうやったらあんなにまずく料理ができるのか、理解できないくらいに美味しくなかった。
下宿には、日本人、台湾人、韓国人、インドネシア人、年配のオーストラリア人等、様々な人種がいた。なるべく色々な人と話をするようにしていた。ある日、他の下宿部屋を見てみると、私の部屋より断然良かった。同じ料金なのに…下宿の責任者の所へ行き、「部屋をかえてくれ!」と言うと「丁度君に良い部屋があって、言おうと思っていたんだ」と調子の良い事を言われた。早速別の部屋へ通された。そこはまるで天国だった。今迄の3倍くらいの広さの上に屋根裏ではない。しかも角部屋で、テレビと流しまでついていた。その時私は「言った者勝ち」という言葉を実感した。
オーストラリアの水道水は悪くないと言われていた。しかし、気をつけて水道水は飲んでいなかった。歯磨きや野菜を洗った後等で、体内に入っていたのだろう。嘔吐下痢が3日くらい続き、ヘロヘロになった。福岡で知り合ったジョンソン夫人が病院へ連れていってくれ、お医者さんに薬を貰った。飲んだらケロっと治った。保険に入っていなかったので覚悟していたら、ジョンソン夫人が支払いをしてくれた。ありがたかった。
ドタバタしながらも、毎日電車に乗りハーバーブリッジを通り「いい風景だな~」と感動して学校へ行き、12人位のクラスで授業を受け(授業は悪くはなかったが、先生が風邪で休みの日はビデオだけ見せられ、なんたる手抜きと憤慨していた。)授業が終わると街をブラブラしたり、映画を見たり、船に乗ってすぐのマンリービーチへ遊びに行ったりして、シドニーを満喫した。週末にはジョンソン夫妻がキャンピングカーでキャンプに連れ出してくれた。自然と街が共存していて、オーストラリアの人達は気さくで、大変気に入りずっとここに住みたい!と思った。
英語の方は、発音が悪く簡単な言葉も通じなくて意気消沈することもあったけど、めげずに機会ある毎に喋りまくった。
実は本来、私はお喋りではなく、常に人の話を聞いている側だったのだが、少しでも上達する為無理してお喋りになる努力をした。
こうして私のシドニーでの最初の2ヶ月は、ドタバタワクワクしながら続いていった。
4:とりあえず始めた英語の勉強
09/02/08 13:33 Filed in: 落ちこぼれからの復旧
19才だったか20才だったかよく覚えていない。とりあえず何か身に付けようと思いたった私は、職場近くの英会話学校を二校ほど訪問し、受講料の安い方に決めた。初級クラスで教室には20人位の生徒がいた。高校のように教壇があり、生徒の机は教壇に向かい並んでいた。生徒が多いので先生と直接話せるチャンスは殆どなかった。週2回仕事の後に休まず通った。それと同時にアルクのヒアリングマラソンを始めた。通勤の往復2時間、ひたすら聞きまくった。休みの日は、ヒアリングマラソンの本を読んで、通勤時に聞いている事は本当は何を言っているのかをチェックしていった。暫くしてから実用英語検定2級の勉強も始めた。
暫くは仕事、英語の生活を続けた。そんなある日、ツアーコンダクターって楽しそう、と思い立ち、専門学校から資料を取り寄せた。バイトしながら東京の専門学校へ通おうと思った。またまた皆に猛反対された。泣く泣く専門学校へ行くことは諦めた。そしてまたある日「青年海外協力隊」に応募した。剣道をずっとやっていたので(岩田屋でも剣道部があり所属していた。)スポーツで受験した。一次試験はパスし、東京で面接があった。二次の技能面接と一般面接で落とされた。
とにかく仕事と英語だけは続けた。天神で外国人が道に迷っていたら必ず声をかけたりした。そこからお友達になった人までいる。ある日、本屋で良い英語の本がないか探していたら、オーストラリア人の男性が声をかけてくれた。
「英語勉強してるの?」と聞いてきたので「そうです」と軽くドキドキしながら英語で会話を交わした。レジに行くとその男性と奥さんがいて、なにやら店員と意思疎通ができていなかったので、はりきって駆け寄り、つたない英語で通訳をした。それからその夫妻と話をして、福岡はこんな所ですよ、ここがいいですよ、とか教えてあげた。次の日、岩田屋のハンカチ売り場に夫妻は訪ねてきてくれた。仕事が終わってから一緒に食事をした。滞在中何度か会い「必ずオーストラリアにおいで」「必ず行く!」と約束を交わした。
その日から、私の夢はオーストラリアに行く事に変わった。
行くのなら1年位住んでみたい。早速両親に相談したが、勿論猛反対された。
そこで私は「よし!猛反対できないように、自分で貯金して、英語が喋れるようになってから行ってやる!!!!!」と決意した。
それからは仕事、英会話学校、ヒアリングマラソン、自宅学習の日々を来る日も来る日も続けた。車のローンは月々10万円位の給料から2~3万ひかれていたのできつかったが、服も買わず、何も買わず、私はひたすらオーストラリア行き資金を貯金した。気の毒に思った岩田屋の同僚は、よくおさがりを私にくれた。実家から通っていたのでローンを払った残りの給料は殆ど貯金にあてた。
英検2級に合格し、貯金もオーストラリアで1年は暮らせるくらい貯まった頃、私は23才になっていた。なんのかんのいいながら18才で就職し5年間も岩田屋で働いていた。石の上にも3年はとっくに過ぎていた。
畳の上に正座し両親に貯金通帳と2級の合格証を差し出し「これだけ貯金しました。英語も結構勉強しました。行かせてください」とお願いした。今度ばかりは両親は反対できなかった。「わかった。行っておいで」と言って貰えた時は本当に嬉しかった。18才から23才まで、私の思いつきにことごとく反対し続けた両親。それは愛情あってのまさに親心であったことは、後にわかることとなる。その時の私には、まだよくわかっていなかった。
心躍らせ、岩田屋の上司にこれこれこういう理由でやめます、と告げるとその上司は人事にかけあってくれ、半年間の休職扱いにしてくれた。岩田屋初まって以来の新制度を、こんな私の為にわざわざ新設してくれた。本当にありがたかった。両親もこれで安心してくれた。
そうして私は岩田屋を半年間休職し、オーストラリアはシドニーにめでたく旅立つことになった。
暫くは仕事、英語の生活を続けた。そんなある日、ツアーコンダクターって楽しそう、と思い立ち、専門学校から資料を取り寄せた。バイトしながら東京の専門学校へ通おうと思った。またまた皆に猛反対された。泣く泣く専門学校へ行くことは諦めた。そしてまたある日「青年海外協力隊」に応募した。剣道をずっとやっていたので(岩田屋でも剣道部があり所属していた。)スポーツで受験した。一次試験はパスし、東京で面接があった。二次の技能面接と一般面接で落とされた。
とにかく仕事と英語だけは続けた。天神で外国人が道に迷っていたら必ず声をかけたりした。そこからお友達になった人までいる。ある日、本屋で良い英語の本がないか探していたら、オーストラリア人の男性が声をかけてくれた。
「英語勉強してるの?」と聞いてきたので「そうです」と軽くドキドキしながら英語で会話を交わした。レジに行くとその男性と奥さんがいて、なにやら店員と意思疎通ができていなかったので、はりきって駆け寄り、つたない英語で通訳をした。それからその夫妻と話をして、福岡はこんな所ですよ、ここがいいですよ、とか教えてあげた。次の日、岩田屋のハンカチ売り場に夫妻は訪ねてきてくれた。仕事が終わってから一緒に食事をした。滞在中何度か会い「必ずオーストラリアにおいで」「必ず行く!」と約束を交わした。
その日から、私の夢はオーストラリアに行く事に変わった。
行くのなら1年位住んでみたい。早速両親に相談したが、勿論猛反対された。
そこで私は「よし!猛反対できないように、自分で貯金して、英語が喋れるようになってから行ってやる!!!!!」と決意した。
それからは仕事、英会話学校、ヒアリングマラソン、自宅学習の日々を来る日も来る日も続けた。車のローンは月々10万円位の給料から2~3万ひかれていたのできつかったが、服も買わず、何も買わず、私はひたすらオーストラリア行き資金を貯金した。気の毒に思った岩田屋の同僚は、よくおさがりを私にくれた。実家から通っていたのでローンを払った残りの給料は殆ど貯金にあてた。
英検2級に合格し、貯金もオーストラリアで1年は暮らせるくらい貯まった頃、私は23才になっていた。なんのかんのいいながら18才で就職し5年間も岩田屋で働いていた。石の上にも3年はとっくに過ぎていた。
畳の上に正座し両親に貯金通帳と2級の合格証を差し出し「これだけ貯金しました。英語も結構勉強しました。行かせてください」とお願いした。今度ばかりは両親は反対できなかった。「わかった。行っておいで」と言って貰えた時は本当に嬉しかった。18才から23才まで、私の思いつきにことごとく反対し続けた両親。それは愛情あってのまさに親心であったことは、後にわかることとなる。その時の私には、まだよくわかっていなかった。
心躍らせ、岩田屋の上司にこれこれこういう理由でやめます、と告げるとその上司は人事にかけあってくれ、半年間の休職扱いにしてくれた。岩田屋初まって以来の新制度を、こんな私の為にわざわざ新設してくれた。本当にありがたかった。両親もこれで安心してくれた。
そうして私は岩田屋を半年間休職し、オーストラリアはシドニーにめでたく旅立つことになった。
3:18才、家出未遂事件後の私
08/02/08 11:55 Filed in: 落ちこぼれからの復旧
両親をはじめ多くの大人から「石の上にも三年」どんな仕事も辛い事の方が多い、仕事が一人前にやれるようになって初めて人間的に成長するんだ。一つの事がやれない人間は何をやっても駄目だ。延々と説教され「三年とにかく頑張りなさい」と言われ、「よし、じゃあ3年間やってみよう」と気分をいれかえ、私のOL生活は再スタートした。先ずは一流の販売員を目指し、毎日真面目に仕事に取り組むことにした。職場の皆は暖かく見守ってくれた。笑顔で帰って行くお客さまを見送り、充実感に浸ることもあった。通勤は相変わらずしんどかったけど、仕事が終わり、食事に行ったり遊びに行ったりして、毎日を楽しんだ。仕事も少しずつできるようになっていった。入社から1年後、同じ一階のハンカチ売り場に異動を告げられた。当時岩田屋のハンカチ売り場は、売り場面積あたりの売上高が日本一だったらしい。それは、販売員はむちゃくちゃ忙しい事を意味していた。開店から閉店まで、お客さまがひくことはめったになかった。その時にはガラガラになった商品の補充に追われた。進物が多いので、私はハンカチの箱詰めと包装を、もの凄いスピードで、その上ビシッときれいにできるようになっていった。暫くは私の周りの人にとっての平穏な日々が続いた。
そうしている毎日の中でも、私の中で「これでいいの?」という問いかけは消えることはなかった。高卒、女性。いくら女性に開かれた百貨店の職場でも、昇進して行くことは難しいだろう。と半人前のくせにそんなことだけは考えた。ただ、すぐに転職をしようとしてもいい仕事などないし、何の取り柄もない私は、どこに行っても同じだという事は、その時には自分なりに理解していた。それならこのまま岩田屋で一流販売員を目指した方がいい、とも思った。そんなある日、ひらめいた。「働きながら何か特技を身につけよう」理数系が駄目な私は、資格の本を買い、消去法で自分に合ったものを探していった。たどりついたのは、英語だった。それが直接仕事に結びつくかどうかは分からないけど、転職の時に有利になりそうだった。それから私の英語勉強人生が始まった。
そうしている毎日の中でも、私の中で「これでいいの?」という問いかけは消えることはなかった。高卒、女性。いくら女性に開かれた百貨店の職場でも、昇進して行くことは難しいだろう。と半人前のくせにそんなことだけは考えた。ただ、すぐに転職をしようとしてもいい仕事などないし、何の取り柄もない私は、どこに行っても同じだという事は、その時には自分なりに理解していた。それならこのまま岩田屋で一流販売員を目指した方がいい、とも思った。そんなある日、ひらめいた。「働きながら何か特技を身につけよう」理数系が駄目な私は、資格の本を買い、消去法で自分に合ったものを探していった。たどりついたのは、英語だった。それが直接仕事に結びつくかどうかは分からないけど、転職の時に有利になりそうだった。それから私の英語勉強人生が始まった。
2:暗いOLの日々
07/02/08 09:44 Filed in: 落ちこぼれからの復旧
高校の進路相談室で、あまり数のない求人情報のファイルをパラパラっとめくっていたら「岩田屋」(百貨店)の求人が目に留まった。目に留まった最大の理由はボーナスが年3回という所だった。(後に春のボーナスは雀の涙である事が判明)。北九州市と福岡市の間のベッドタウンに住んでいた私は、「福岡市内の繁華街に毎日行けるなんていいな」「どんな楽しいことがあるんだろう?」と心躍らせた。とんとん拍子に私の就職は決まった。本当に何も考えていない、世間知らずな18才だった。高校生活最後の部活も終わり、就職も決まり、運転免許も取得し、仕事が始まるまでの毎日は、本当に楽しかった。調子にのって仕事も始めていないのに、頭金なしのローンで車まで買った。(後悔する事となる。)4月になり、私のOL生活は始まった。実家から駅迄はローンで買った車で10分。駅から博多まではJRで35分~45分。それから地下鉄に乗り換えて6分位。乗り換えがあるのでトータル1時間は軽く片道でかかった。JRでは座れる日もあれば、立ちっぱなしの日もあった。仕事で一日中立ちっ放しだったので、帰りに座れないと若い当時でさえもちょっとこたえた。「仕事は?」というと、まずどこかの山の中で研修があった。何をしたかよく覚えていないけど、座禅を組んだ事だけは覚えている。それから配属先の希望を書きなさい、と言われた紙に、第一希望「紳士服売り場」と書いた。何故そう書いたのかも覚えていない。結局配属先は一階の化粧雑貨に決まった。お化粧をビシッと決め込んだお姉様方の間に、こじんまりと位置する化粧雑貨売り場。鏡やポーチ等を売っていた。それまで自分自身で買い物をした経験も殆どなく、接客などスムーズにできるわけもなかった。なのに、同じ売り場の先輩達は、優しく色々と教えてくれた。接客、レジ、商品の補充。これが最初の仕事だった。仕事にまだ慣れていない5月、博多どんたくがあった。新入社員は招集され、お揃いの服を着させられ、ボンボンかなにかをもってパレードに参加しなければいけなかった。幸いやる気のない私は、お揃いの服を最後に貰いに行ったので、サイズが合うのがなく、Tシャツに短パン、とお揃いの服よりも、ましないでたちをする事ができることとなった。私の役目は風船配りだった。その頃すでに「これは私がやりたいことじゃない」と思い始めていた。入社1ヶ月にして、である。それで早々に人事担当の人に「辞めたい」と言いにいった。なんとも根性のない人間である。担当の人は「ご両親には相談したの?」と言われ「していません」と私が言うと、まず両親と話し合いなさい、と諭され帰された。両親には言えなかった。入社早々「辞めたい」なんて。
博多どんたくの日、私はとんでもない行動にでた。スポーツバッグに身の回りの物を入れ、岩田屋でなく、福岡空港へ向かった。空港から人事に電話し「辞めます」と言った。東京行きのチケットを買い、搭乗手続きを済ませた。東京に行けば、なんとかなるかもしれない、と思った。飛行機の出発時間まで暫くあった。その間、色々な事が頭の中を駆け巡った。まず、両親は激怒することだろう。(何も言わずに飛び出したのだから)化粧雑貨売り場の人は呆れるだろう。でも東京で立派になれば、そのうちみんなわかってくれるだろう。いや、ローンで買った車はどうしよう?体も心も重く、八方ふさがりのような気がした。とにかくローンで買った車が気になった。結局東京行きの飛行機には乗らなかった。チェックインした荷物だけが、東京まで行った。
博多どんたくの日、私はとんでもない行動にでた。スポーツバッグに身の回りの物を入れ、岩田屋でなく、福岡空港へ向かった。空港から人事に電話し「辞めます」と言った。東京行きのチケットを買い、搭乗手続きを済ませた。東京に行けば、なんとかなるかもしれない、と思った。飛行機の出発時間まで暫くあった。その間、色々な事が頭の中を駆け巡った。まず、両親は激怒することだろう。(何も言わずに飛び出したのだから)化粧雑貨売り場の人は呆れるだろう。でも東京で立派になれば、そのうちみんなわかってくれるだろう。いや、ローンで買った車はどうしよう?体も心も重く、八方ふさがりのような気がした。とにかくローンで買った車が気になった。結局東京行きの飛行機には乗らなかった。チェックインした荷物だけが、東京まで行った。
1:落ちこぼれてしまった高校生活
06/02/08 09:42 Filed in: 落ちこぼれからの復旧
中学生の時までは授業をちゃんと聞いて宿題をしていたら、テストではちゃんと良い点がとれていた。高校は進学校に無事合格した。そこ迄は順風満帆であった。ところが、高校生活が始まり数ヶ月たった頃、授業がちんぷんかんぷんになっているのに気づいた。よく考えると、頭の良い子が入学し集まってきているので、努力しなければ落ちこぼれることは言うまでもなかったのだが、それに気づく迄に暫くかかった。理数系は手遅れだった。定期テストはなんとかごまかせても、数学の実力テストは、最初にある数問だけ解き、その他90パーセントを占める計算式等、手のつけようがなかった。毎朝の英単語テストは毎回不合格で、放課後部活前に職員室に行き、追試を受けていた。英語の授業の時に答えられなかったら、まず一回目は起立させられ授業を受け、二回目答えられなかったら椅子の上に正座、三回目は廊下に立たされたような気がする。いつもドキドキしながら、難しい問題が来ませんように、と願っていた。私の高校生活は今思えば結構暗い。部活は小学、中学、高校と剣道部だった。それだけは続けた。何度もくじけそうになったが、その度に励ましてくれた母には今でも感謝している。一つの事を続ける苦難、喜びは、剣道を通してしっかり学ぶことができたように思う。とはいっても、私の成績が上がるわけもなく、なんとか毎日ごまかしながら、辛うじて高校を卒業することができた。周りのみんなは大学へ進学して行った。就職すると言うと、皆が「なんで?」と言ったが、私はとにかく「勉強」から逃れたかった。そして自由になり、働いてお金を稼ぎ、思い通りに生きて行きたかった。勉強から解放されて自由な世界が私を待っていると信じていた。仕事を始めるまでは…
TOEIC 980、英検1級合格、ペラペラ喋る、どうすれば可能?私の辿った回り道
05/02/08 08:56 Filed in: 落ちこぼれからの復旧
はじめに
巷では、英会話の本、CD、テレビ番組、数多い英会話学校…とその気になれば、英語を学習していく環境は十二分に整っている。それなのに未だに日本人の英語でのコミュニケーションの能力はぱっとしない。読み書きはできるのに、英語で話すとなると、急に無口になる。「英語が話せるようになる必須条件」私は次のように考える。
1 恥をかく
私たちは英語を母国語としていないのだから、間違えて当たり前。大切な事は相手としっかり意思疎通をしようという気持ちだ「間違えたら恥ずかしい」「これって的確な表現?」と心配するよりも、自分が言いたい事、自分が聞きたい事、を明確にしていくこと。日本語でもしっかり意思疎通できない人が英語で意思疎通しようとしても不可能な事は言うまでもない。
2 訳さない
英語を日本語に、日本語を英語に、頭の中でくるくる訳そうとしないこと。そんな難しいことは、通訳の人に任せておけばよい。自分がコミュニケーションしようとする場合、知っている言葉の範囲内で、英語で考え英語で話す。これが原則だ。むやみに難しい文法や単語を使おうとしない事。日常会話に、ビジネス書にでてくるような言葉が飛び出してきたらおかしい。
3 継続力 短期間でペラペラになる魔法はない
世の中、そう甘い話はない。英語学習も同様。英語の音を聞き分けられるようになるには、1000時間英語を聞く必要があるらしい。コツコツと継続して努力すれば、誰だって話せるようになるし、努力しなければ話せるようにはならない。いたって単純な話だ。勉強方法については、本文で紹介していく。
「必須条件」は上記たったの3点だ。といってもこれを克服できるかできないかで、「話せる」か「話せない」かの大きな違いが生まれる。
まずは、恥をかく、訳さない、を肝に命じ、継続的努力をしていく。するときっと道は開けて来る。
本文では、20才で英語の学習を始め、今日(只今43才)迄、私が辿った回り道を、小出しに紹介していきたいと思う。「こんな平凡な人でも、継続していくことで、一つでも取り柄ができるんだな~」「私にもできる!」と、感じて頂き、少しでも英語学習の助けになることを願いながら。
巷では、英会話の本、CD、テレビ番組、数多い英会話学校…とその気になれば、英語を学習していく環境は十二分に整っている。それなのに未だに日本人の英語でのコミュニケーションの能力はぱっとしない。読み書きはできるのに、英語で話すとなると、急に無口になる。「英語が話せるようになる必須条件」私は次のように考える。
1 恥をかく
私たちは英語を母国語としていないのだから、間違えて当たり前。大切な事は相手としっかり意思疎通をしようという気持ちだ「間違えたら恥ずかしい」「これって的確な表現?」と心配するよりも、自分が言いたい事、自分が聞きたい事、を明確にしていくこと。日本語でもしっかり意思疎通できない人が英語で意思疎通しようとしても不可能な事は言うまでもない。
2 訳さない
英語を日本語に、日本語を英語に、頭の中でくるくる訳そうとしないこと。そんな難しいことは、通訳の人に任せておけばよい。自分がコミュニケーションしようとする場合、知っている言葉の範囲内で、英語で考え英語で話す。これが原則だ。むやみに難しい文法や単語を使おうとしない事。日常会話に、ビジネス書にでてくるような言葉が飛び出してきたらおかしい。
3 継続力 短期間でペラペラになる魔法はない
世の中、そう甘い話はない。英語学習も同様。英語の音を聞き分けられるようになるには、1000時間英語を聞く必要があるらしい。コツコツと継続して努力すれば、誰だって話せるようになるし、努力しなければ話せるようにはならない。いたって単純な話だ。勉強方法については、本文で紹介していく。
「必須条件」は上記たったの3点だ。といってもこれを克服できるかできないかで、「話せる」か「話せない」かの大きな違いが生まれる。
まずは、恥をかく、訳さない、を肝に命じ、継続的努力をしていく。するときっと道は開けて来る。
本文では、20才で英語の学習を始め、今日(只今43才)迄、私が辿った回り道を、小出しに紹介していきたいと思う。「こんな平凡な人でも、継続していくことで、一つでも取り柄ができるんだな~」「私にもできる!」と、感じて頂き、少しでも英語学習の助けになることを願いながら。