BJクラブ英会話

    楽しく、しっかり身につける英会話

BJクラブ英会話 東広島市 西条 (西条土与丸) | 祥子のブログ

25:英語便利屋

私の肩書きは通訳だった。名刺にもちゃんと書いてある。

ただ、通訳ができるか?と聞かれると、本当はできなかった。

それでは詐欺ではないか?

英語が話せる事と、通訳する事は必ずしも直結していない。そこにはあらゆる日本語表現を持っている事や、一般教養や専門知識、そして即刻一つの言語から他の言語へ変換するという、頭の切れが必要となってくる。

私はあいにくその中の一つも、持ち合わせていなかった。

私の仕事は、手に汗にぎる会議通訳がぼちぼち、翻訳、その会社に出向している日本人とその家族の英語サポートや、社長の秘書的仕事、日本の会社とのやりとり、日本からやってくる社員やお客様のお世話、等々だった。

いわゆる英語便利屋というところだ。

英語便利屋は、入社直後から電話交換担当の昼休憩の間、電話番をする任務を課せられた。

日本語でも新入社員で電話番をするのは辛い。それが英語である。人の名前がぎっちり書いてあるチャートを渡されても困る。

慣れない大きな電話交換機みたいなものの操作と、知らない名前と英語、三重の痛みである。

一度Harryへかかってきた電話を間違えて、人事部長のHarleyへ回して激怒された。

私の英語力もまだまだだった。

24:極道の従業員

トロント空港へ着くと、副社長が迎えにきてくれていた。

勿論初対面だった。ドキドキしながら挨拶を交わし、車へと案内された。

トロントから私が働く町、Tillsonburgまでは高速を通って2時間強の道のりだった。

車の中で話をしている時、副社長が「わし」を連発するので私は「鷲?」と自分の耳を疑った。

文脈から想像すると、それは「わたし」のことであったことは言うまでもない。

立ち居振る舞いは紳士だ。「わし」は極道ではないか?

ということは、私は極道の従業員ということか?

まずは前任者が住んでいるアパートが空くまでの2週間は、町の中のホテルで過ごすことになっていた。

そのホテルまで送ってもらい、一人になると「わし」の一件からなんともいえない不安がよぎってきた。

飛行機は夜到着で、ホテルに着いた頃はもう真夜中近くだった。

二日後の出勤だろうと勝手に思っていた。

副社長が、明日7時30分に迎えにくるから、と言う迄は。

真夜中に着いて、次の朝いきなり出勤。

どんな過酷な労働が私を待っているのだろうか?

と不安は募るばかりだった。

その夜は「わし」と「重労働」への心配に時差ボケが加わり、なかなか眠れなかった。

23:消えた課長

英会話学校へ戻り、課長に責められるのを覚悟の上、カナダ行きの一部始終を話した。

その課長は言ってくれた「君にとってはとても良い話だね、頑張っておいで」と。

彼は北九州支部の営業と教務全ての責任者だった。営業にはいつも怖い顔をしていたが、私たちには優しかった。

あの凍り付くような朝礼を統括していたのも、課長だった。

引き継ぎを済ませ、日本の友人にはまた行って来ると告げ、少ない荷物をまとめた。

両親は安心して送り出してくれた。

空港へ行く途中に広島に寄り、会社で手続きを済ませ、カナダ大使館で就労ビザの面接を受けた後、カナダへ再びバタバタと旅立った。

それから間もなく、元同僚からの知らせで、例の熱血課長の事を聞き耳を疑った。

彼はある日を境に、無断で会社に行かなくなっていた。連絡もとれなかった。

本部の人が慌てて探し、数日後にやっと発見できたそうだ。

課長不在の北九州支部は、混乱に包まれたらしい。

どうやら、燃え尽き症候群で二度と会社には戻らなかったようだ。

働き過ぎも考えものだ。

22:初めての八本松 〜広島県〜

私は小学校の修学旅行以来初めて、仕事の説明を聞くのと面接を兼ねて、広島を訪ねた。

生まれて初めて山陽本線に乗り、八本松が近づく頃、少し不安になった。

瀬野駅から八本松間がすごく長くて、しゃきっと起きているのに乗り過ごしてしまったんじゃないのか?という不安と、この田園風景の中に、カナダに工場をだすような会社があるのか?という不安だった。

胃が若干キリキリした。

無事八本松駅で降りる事はできたものの、私の胃は益々キリキリしだした。

なんでこの駅はこんなに高い所にあるのだろう?駅前がなんでこんなに閑散としているのだろう?

辺りを見渡すと、人事部長らしき方がいて、挨拶を交わし少しほっとした。

会社で仕事の説明を受けて、一ヶ月後の出発が決定した。

もう迷いはなかった。

ただ、あんなに劇的別れをして日本に帰ってきたのに、8ヶ月後にまたどんなオマヌケ顔をしてカナダのみんなに会えばいいのだろうか?という事だけが、気がかりだった。

21:嬉しい悩み事

海外に行く前には、一円でも多く貯金ができるようにケチケチ生活をし、カナダに行ってから更に極貧生活を続けた私だったが、英会話学校へ勤めるようになってからは、少し気持ちを切り替えた。

お給料は好きなように遣って、余った分を英会話学校の開業資金にしようと思った。何年かかったとしても、もうケチケチ生活にはうんざりだった。

ということで、仕事をして、同僚と食事をしたり、休日は遊んだりと、初めて人並みの社会人生活を平穏に続けた。

子どもクラスの教え方には進歩はなかったものの、その他は何の悩みも不安もなく、毎日を送っていた。

そのような時に限り、夢のような話が私に舞い降りてきた。

以前は転職したい、学校に行きたい、どれもこれも行き詰まり、苦しみながら前に進めない日々だった。

そして、亀のようにノロノロと一応は前に向かって歩き出し、あと数年で(あのペースだと10年は軽くかかっていただろう)自分の英会話学校への扉が開かれようかと思われた時、その電話はかかってきた。

それは広島の自動車部品メーカーの人事部長からだった。

要約すると、その会社のカナダの工場で通訳が必要なのでどうか?というお誘いだった。

何故そのような話を頂いたかというと、カナダの剣道友達のJanetがその工場がある町に住んでいた。

そこに遊びに行った時に日本から出向していた方の息子さんが道場に通っていて、一緒に剣道をして知り合いになった。

その後、前任者が辞めるので私の名前をだしてくださったのだった。

私にとっては、もったいないような話だった。ただ、その時は落ち着いて仕事ができていたし、入社して7ヶ月で辞めるのはとても気が引けた。悩みまくっていたら、Hilaryが丁度その時来日していて、またもや私の背中を押してくれた。

一通り私の気持ちを確認する為、質疑応答を繰り返した後、彼女は言ってくれた。

やらずに後悔するよりも、万が一ダメでもやって後悔した方がいい。

やってみないと一生、どうだったのかな?あの時あの道を選んでいたら?と後悔するだろう。

その瞬間私の気持ちは決まった。

20:英会話学校で働く

私の主な仕事は、朝のテレフォンレッスン、週2回の受け持ちクラスのレッスン、非常勤講師から出退勤を知らせる電話の応対、等々だった。

営業と教務は薄い壁一枚でしきられていたが、営業の朝礼は聞いているだけのこちらが凍り付くほど厳しく、気合いが入っていた。

それに比べ教務は、朝からコーヒーを入れたりしてのんびりした雰囲気だった。

教務には、常勤講師が私を含め3名、事務2名がいた。

なんだか、ほんわかとしていた。

岩田屋で、勤務時間中ずっと360度気を使って、お客様に目を配るのとは違っていた。

仕事は楽だった。

ただ、私はまたしても自分が重大なミスをしている事に出勤初日に気付いた。

その英会話学校は、子ども向け英会話で、大人は一切教えていないのであった。

ちょっと値段のはる教材を買って頂き、レッスンに来て貰うというカラクリだった。

私の目指すのは大人向け英会話学校であり、子ども向けではなかった。

当時子どもにどう接したら良いのかなど、全くわからなかった私は、なんとか与えられた課題をこなすのが精一杯で、激しく飛び跳ねる子ども達を全くコントロールすることができないでいた。

悩みの種はその一つだけ、暴れる子ども達を、いかにこちらに振り向かせるか、だった。

その悩みが解決される日が、その学校に勤務している間に来る事はなかった。

19:英語学校へ就職する

帰国した翌日の朝、駅で購入しておいた求人情報をパラパラっとめくっていたら、小倉にある英会話学校の、正社員講師の求人広告があった。

英会話学校を始める前に、現場で数年間勉強したいと思っていた私は、それをみた1秒後には、電話の受話器を握っていた。

その次の日には、岩田屋時代にもっていた自分の中で1番いい服を着て、面接に行った。

人事の人は即決で、私を雇ってくれた。人手不足で焦っていたようだ。

次の週の月曜日からの出勤が、その場で決まった。

家に帰って報告すると、両親は喜んでくれた。でもその喜びの中に、何も言わないけれど、一抹の不安があるようだった。

また岩田屋の時のように、入社した途端辞めたいと言いだすのではないか、と心配していたようであった。

私には不安は1%もなかった。

これが私の目指す英会話学校開設への道なのだと、疑いもしなかった。

初めて、自分の受け持ちの子どもクラスを見るまでは…

18:帰国途中の出来事とスーパー主婦

カナダからの帰りの便は、トロントからバンクーバー、ソウル経由で福岡着の大韓航空だった。ソウルでターミナルを移動しなければならなかったので、飛行機の中でキャビンアテンダントに、どのターミナルへ行ったらいいのかを尋ねた。

飛行機から降りると、笑顔が素敵な一人の若者が私を待っていて、彼は私をエスコートして、滑走路内にある30人は乗れる大きさのバスへと案内してくれた。そのバスには彼と私、二人しか乗っていなかった。しかも目的のターミナルに着くと、チェックインカウンターまで連れて行ってくれて、カウンターの人に事情を説明し、チェックインする私を後ろから見守ってくれていた。そして次の便はこれだから、乗り遅れないように、と言って去って行った。

大韓航空はいつもこんなにサービスがいいのか?26才の私を子どもだと勘違いしたのか?私の頭の中には?マークが飛び交っていたが、感謝をし、それから半日、空港内で福岡行きの便を待った。後にも先にも、あんなに空港で親切にしてもらったことはない。

当時の私は、必要な物は質が悪かろうと、最低値で手に入れるという事を誇らしくポリシーとしていた。

航空券も例外ではなく、どんなに乗り継ぎが悪かろうと、最安値のものを手に入れなくては気が済まなかった。

長い旅を終え、福岡に着くと私はまっさきに駅の売店で、求人情報誌を一冊手にいれた。

我が家へ戻り、2年ぶりに母の手料理をお腹がはちきれそうになる迄食べた。

母の料理は最高に美味しい。私は友人をよく家に連れていくのだが、友人達は口を揃えて母の手料理を褒めてくれる。

家にはいつ帰っても埃一つ落ちていない、母はスーパー主婦だ。

カナダで恋しかったナンバーワンは、母の手料理だった。

その娘の私はというと、当時は料理も掃除もできないダメ娘だった。実家では全て母がやってくれ、カナダでもJacquiとBettyが世話をやいてくれていた。冷蔵庫の残り物でも何品か作れるようになったのは、つい数年前の事だ。

両親とゆっくり食事をし、自分の部屋で久々に眠りにおちる頃には、なんともいえない安心感が私を包みこんでいた。

17:さよならカナダ

卒業式が無事終わり、皆に別れを告げ、私はカナダを後にすることとなった。

グリズリー(一緒に2年間過ごした犬)は、私がパッキングをしている時から私がいなくなってしまう事に気付いていた。

スーツケースを持って家を出る時、グリズリーが動揺すると思い、涙をこらえた。でも最後にギュット抱きしめずにはいられなかった。

グリズリーは、いつも私を支えてくれていた。誰にも言えず、英語やら勉強やらで落ち込んでいる時、グリズリーは悲しそうな顔をしながら、私の側にいつもいてくれた。

特に犬好きではなかった私だったが、とても大切に思える犬となっていた。

皆が空港まで送ってくれた。

カナダに行った時には知り合いは二人だけだったが、二年間で私は沢山の宝物を手にしたのだと、その時改めて感じた。

飛行機の中で、暫く涙が止まらなかった。

16:就職活動 ~当たって砕けたカナダ編~

短大が終わる頃、もう少しカナダにいて自分の力を試してみたいという思いから、就職先を探すことにした。

その頃には少しは現実と夢の違いを認識できるようになっていた私は、カナダ人と同じ土俵で戦えない事を悟っていた。会社は、特に取り柄のない新卒を雇うのであれば、間違いなく日本人ではなくカナダ人を採用するだろう。日本人を雇うとなると、就労ビザを申請しないといけないし、英語ができるようになったからと言って、大人になってから学習を始めた日本人が、ネイティブスピーカーと全く同じようにコミュニケーションできる訳ではなかった。そんな見ず知らずの日本人を雇うよりも、カナダ人を雇った方が手間が省けて即戦力にもなる。

ということで、短大の求人情報は最初っから見ていなかった。

日系企業で探そうと、トロントで日本人向けに発行されている新聞の求人欄をくまなくチェックした。

一つ目に留ったのがマクドナルドの経理の仕事だった。早速連絡をとると「面接にきてください」と言われ、トロントの中心部からかなり長い間地下鉄に乗って、私はその郊外にあるマクドナルドへ行った。

そこの日本人オーナーは、最初から英語で私に話しかけて来た。私も英語で終始受け答えをした。色々と話をして、今日は来てくれてありがとう、とマックの食事券をくださった。

手応えはあった、と思っていたが後日「君もよかったんだけど、決めた人は経験があるんだよ。君は二番だった」と言われた。

終始2番手で終わったカナダ生活であった。

がっくり肩を落とし、一社に断られただけなのに、なんだか疲れて「日本へ帰ろう!」と思った。

15:カナダ卒業

その地に住むという事は、訪れるという事と意味が違うのだと思う。6ヶ月のオーストラリアは楽しいばかりだったけど、カナダでの2年間は、楽しいより辛い方が多かったような気がする。

その中で沢山の人たちが私を支えてくれた。家族のように接してくれたJacquiとBetty。家が近くて毎日学校の送り迎えをしてくれたカディージャ。よくご馳走してくれたCorina。お金のない私を、週末は映画や食事に連れて行ってくれたFrancis。ここに書ききれない人も沢山いる。皆がいなければ、私は途中で挫折していたかもしれないし、JacquiとBettyと出会っていなければ、カナダには行ってなかっただろう。

出会いに本当に感謝している。いつか恩返しをしたいと思いながら、なかなか果たせないままでいる。

Francisともその後ずっと交流が続いていたが、つい最近やっと彼にも彼女ができた。私も自分の事のように喜んでいた。しかしその後ぷっつり音信不通になってしまった。幸せだという事だろうと思い、そっとしておくことにした。

カナダで勉強した事は、その後BJを立ち上げて運営していく点において、とても役立っている。真面目にとりくんでいてよかった。

卒業課題を次々とこなし、そのまま放置していたら卒業できそうにないNellieの卒業課題を泊まりこみで手伝い、私の短大生活は終わりを迎えた。

14:ポインターシスターズ 〜カナダアジア人編〜

夏休みが終わり、学生生活2年目に突入した。私は相変わらず頑張って勉強を続けた。1年生の時のように時間はなかった。友達と遊んだり剣道をしたり、パーティーに行ったりで結構忙しかった。それでも誰よりも真面目に勉学に取り組んでいた。

そんなある日、学校でくちパクコンテストがあった。

同じ授業を受けていたNellieとNancyは何故か私を誘ってくれ、3人でくちパクコンテストにでることとなった。

それから私たちは多忙な日々を過ごした。まず、3人で集まってはポインターシスターズのビデオを見ながら、振り付けを練習した。

ポインターシスターズは一世を風靡した3人の黒人女性グループだ。

I'm so excited
 という大ヒット曲の振り付けを、私たちは来る日も来る日も練習した。

最初は笑いながら和気あいあいとしていたのだが、そのうち皆本気になってきて、一人が間違えたりしたら誰かがむっとするのだった。

私はドキドキしながらも、必死にポインターシスターズに少しでも近づこうと練習に励んだ。

くちパクコンテスト当日、私たちは事前に入手しておいた、ちりちり毛のカツラをかぶり、顔には黒に近いファンデーションを塗りたくり、3人でお揃いの黒のスカートのスーツを着て晴れ舞台に立ち、ガンガンに歌が流れる中、力の限り熱唱するフリをしながら、踊りまくった。

曲が終わると大歓声の嵐だった。冬だとういうのに汗が頬をつたって流れた。

残念ながら私たちは優勝には一歩届かず、2位で終わった。

ここでも賞金は手に入らず名誉だけをもらう事になった。貧乏な時はとことんお金に縁がないものだ。

何年たった今でも、あの曲を聞くと私の血は騒ぎだし、体が小刻みに動きだしてしまう自分を止められないでいる。

13:極貧生活

カナダに留学する時、岩田屋時代にケチケチ生活に徹し貯金したお金が全部で200万円位あった。2年間の授業料が120万円で残ったお金は80万円だった。

私は無謀にも、その80万円で2年間を乗り切ろうとしていた。1年間40万円1ヶ月3万3千3百円の生活費ということになる。そこからJacquiとBettyがむちゃむちゃ安くしてくれた家賃と食費2万円を支払うとお小遣いは1万3千3百円だった。

自転車は思い切って買ったが、その他の無駄遣いは一切しなかった。2年間洋服も下着すら買わなかった。

その時の写真を見てみた。

Jacqui
が仕事場でもらってきたモルソンドライ(ビールの名前)のTシャツと色焦てのびのびになった黒いショーツをはき、私は誇らしげに写真に収まっている。モルソンドライのTシャツは、バーで大音量の音楽がかかっている時、自分の着ているTシャツをまたまた誇らしげに指差せばウエイトレスが注文を遠くからでもわかってくれた。とても便利でお気に入りの一枚だった。

結局帰国三ヶ月前くらいに私のお金は底をつきた。(当たり前だ)

その時両親に初めて甘えた。両親は余るくらいのお金を送ってきてくれた。

あの時餓死せず、無事カレッジを卒業し帰国の途につけたのも全て両親あってのことだ。心から感謝している。

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