BJクラブ英会話

    楽しく、しっかり身につける英会話

BJクラブ英会話 東広島市 西条 (西条土与丸) | 祥子のブログ

40:落ちこぼれからの復旧 最終回

高校で落ちこぼれ、百貨店に就職してから英語の勉強を始めて24年がたった。
家出未遂をし、やろうとする事をことごとく反対され、留学し、就職し、うちのめされ続けた20代があった。
振り返ると笑い話だが、あの頃はすごく悩んでいた。

20代、特に前半は私の暗黒時代であった。

31才でBJクラブを始めても、何年も軌道にのることはなかったが、夢が進み始めた。

先月、44才になった。
自分が44才になるなんて夢にも思っていなかった。

きっと、最初からBJクラブがあって、そこのオーナーになっていたら気持ちは違っただろう。
最初から、あなたはこの仕事をしなさい、と言われていたなら、やる気も起こらなかっただろう。

遅咲きではあるが、今は全てが順調のように思える。
今迄支えてくれた人達のおかげだ。

日々の悩みはあるが、自分が好きなことをして食べていけるということは、ありがたいことだ。
でも、油断は禁物である。

先日、新しい生徒さんの奥さんに「受付の人ですか?」と、聞かれた。

これは警笛である。

しかも、その時は何人もの人に話しかけられていて、レッスンの時間も迫っていたので、
わたしは「はい、そうです」と言って用件だけ聞き、ちゃんと自己紹介をできないでいた。

ここの所をどうにかしないといけない。

そういえば、この特集は、英語の勉強方法等を紹介していく為に始めたものだったが、私の半生の
記録のようなものになってしまった。

最後に、英語が上達する為に私がした事を、お詫び方々綴りたい。

毎日決まった時間に少しずつ集中して勉強する
英検、TOEICを受験し、目標を定める
リスニングは通勤時間を利用する
新しい単語や表現はノートにまとめて、何度も見直す
海外へ飛び出す
英語を学習する目的を明確にする
間違ったっていい。大切なのは相手としっかり意思疎通をするという気持ちでいる事。

継続は力なり!あまり目新しいアドバイスでなく申し訳ないが、即英語がマスターできる魔法はどこにもないのは真実だ。

英語を学習することで、海外へ行って帰ってこない人、素敵な出会いがあった人、仕事に役立った人、
色々な人が今迄いた。沢山の人の世界が広がった事を嬉しく思う。

私も日々、気を引き締めて、楽しみながら、これからのBJクラブの舵取りをしっかりしていきたい。

39:TOEIC受験日の大迷惑

美和ちゃんが受けよう!と言うので、では私も、とTOEICを受験することにした。

レッスンでTOEICを教えていたので、自宅学習は特にしなかった。
人に教える為には200%、どこからのジャブ(質問)にも答えられるように準備をする為、自分の為の試験勉強より熱が入る。

1時間のレッスンに、1時間かけて準備をする。感覚でわかっている答えが、理論づけて説明できるようになる。
結果、かなり身に付く事となる。

試験は休みの日の朝で、その日は体調が悪かった。珍しく風邪をひいたようだった。
どうしようか?受験やめようか?と思ったが、受験料を払っていたし、みんなが一緒に行こう!と言ってくれたので、行くことにした。

美和ちゃん、りえさん、敦子さん、ますみさんが一緒に受験をした。
その中で運悪く、美和ちゃんと敦子さんは私と一緒の教室での受験だった。

リスニング中は調子が良かった。ライティングになり、少し咳がでてきた。問題を解き終わると同時に咳込んだ。
迷惑になるので、外に出ようかと思ったが、激しい咳は止まったし、監督者に席を離れたい、というやりとりも周りに迷惑をかけそうなので、
念のため持って行っていた飴を口に放り込み、そのまま教室に留まり、見直しをした。

終わると同時に、美和ちゃんがやつれた顔をして、私のところへやってきた。
どうやら、私の咳が気になってテストに集中できなかったらしい。悪いことをした。

美和ちゃんは私の咳のせいで、前回の結果よりも点数が下がっていた。

皆に大迷惑をかけた私の点数は、980と高得点だった。

私の結果を聞き、その日テストを一緒に受けた皆から一斉に顰蹙(ひんしゅく)をかったことは、言うまでもない。

その日以来、誰もTOEICを一緒に受けよう、と誘ってくれない。それどころか、あの受験仲間でTOEICの言葉が出る度に責められ続けている。

風邪をひいた時には、試験は放棄するというのが賢明なようだ。

38:しみとりレーザーと椎間板ヘルニアの因果関係 〜その3〜

「すぐに良くなる」と思っていたが、激痛は終始収まることはなかった。

検査の結果椎間板ヘルニアであることがわかった。そういえば昔から腰が痛かった。

私の入院生活には決まったパターンがあった。

朝やっと寝入った頃に看護婦さんがタオルを持ってやってきた。

それから朝ご飯と歯磨き。うとうとしてから10時30分から昔のドラマを見る。

それが終わる頃、英子さんがポットにコーヒーを入れてもってきてくれた。

昼から午後にかけて、両親が来てくれた。

(入院したと連絡したら、福岡から泊まりがけできてくれた。)

夕方になると、会社帰りに美和ちゃんが色々と持ってきてくれた。

美和ちゃんは私の両親が到着するまでの一週間、仕事と犬の世話と私の看病とで、やつれていた。

りえさんも会社帰りにやってきた。

りえさんだけは明るくビールを片手に「女子寮みたいだね」と私の病状とは裏腹になにか楽しそうだった。

面会時間が終わり、みんなが帰ると寂しかった。

悪い事にテレビではDr.コトーが放送されていて、それを見て涙がでてきた。

Shannon
は菊を持ってお見舞いにきた。Chrisは鉢植えを持ってお見舞いにきた。

日本の風習を冗談まじりに教えたかったが、来てくれる事が嬉しかったし、冗談を言える状態ではなかった。

2週間が過ぎる頃、杖をついてなんとか歩けるようになり、退院した。

その頃丁度、目の下の10円玉代のカサブタがめでたくとれた。

カサブタにとっては最良の入院だった。

私は生まれて初めての入院生活で、つきなみではあるが、毎日美味しく食べて、自分の事は自分でできて、という健康のありがたみをしみじみと感じた。

それと同時に、BJは勿論私の大切な大切な宝だが、それ以上に大切な事があるのだという事を改めて知った。

なんだか、人生観が変わった気がした。

その年のお正月に、みわちゃんと予定していたバリ旅行はキャンセルせざるを得なく、のち一生責められていることは言う迄もないが。

37:しみとりレーザーと椎間板ヘルニアの因果関係 〜その2〜

朝早く、下半身に走る激痛で目が覚めた。

とにかく痛いので、寝ている母を起こそうと立ち上がろうとするけれども、立ち上がることすらできない。あらゆる家具につかまりながら、壁をつたってやっとの思いで前に進んだ。

何が起こっているのかわからないが、その日のうちに広島へ帰って月曜日にはBJに行かなければならない。私はどうやったらまともに歩けるようになるかを考え、激痛の中ストレッチをしたり、風呂に入ったりした。それは1番やっては行けない行為だったと後に知る事となった。

痛みはひどくなる一方で、まっすぐ立って歩く事は不可能だった。止める両親をふりきり、昔使っていたスキーのストックを杖代わりにして、座っていても激痛が走る体をひきづり新幹線に乗った。その日に限り、プラットホームへのエスカレーターとエレベーターが工事中で、長い階段をてすりにしがみつき、斜めになりながら登った。駅員さんが心配してかけつけてくれた。「車イスでかかえていきますよ」と言ってくれたが辞退した。

母は後に、10円玉台のカサブタを顔につけ、杖をついた娘が新幹線に乗る姿をみて、涙がでてきたともらしていた。

東広島駅には美和ちゃんが迎えに来てくれていた。私の姿を見て「戦争から帰って来た兵隊さんみたい」と言った。私はおかまいなく「明日に差し支えるといけないから、とりあえず井口病院に連れて行って」と言った。

病院に着く頃私は、杖があっても歩けない状態となっていた。車いすにのり、診察を待った。

先生が痛み止めの注射を打ってくれたが、全く効き目はなかった。「入院しますか?」
「いえ、明日から仕事なのでしません。」

「仕事は無理ですよ。家に帰っても、きっと困りますよ。」

とりあえず言われた通り入院した。先生は正しかった。翌朝からは、激痛がさらに悪化し、上半身すらまともに動かす事ができなかった。美和ちゃんはその時の私を「1ミリも動けない」と上手く表現していた。

感心している場合ではなかった。

後の2週間の入院生活が始まった。

36:しみとりレーザーと椎間板ヘルニアの因果関係 〜その1〜

その日私は里帰りを兼ね、長年温めてきた目の下のシミの除去に、福岡へくり出した。

いつもは車で帰るのだが、病院が福岡市内にあるのと、週末だけだったので新幹線を利用した。

乗車前に事前に貰っていたセロハンテープに見える麻酔シートを、顔のシミの部分にペタペタと貼った。

博多駅で降りてみどりの窓口で聞きたい事があった。

質問をしたけれども、答えがよくわからなかった。

シミとりレーザーを控えて動揺していた私は「よくわからん」とセロテープぺたぺたの顔を係の人に向けて言い放った。

「よくわからん」かったのは、駅の係の人だったかもしれない。

シミとりレーザーはあっという間に終わり、目の下には真っ黒な10円玉位の大きさのカサブタができた。

2週間程でとれるとのことであった。

その夜は、カサブタが妙に目立つ顔をして実家に帰り、美味しい母の手料理を食べながら両親とお酒を飲んだ。

平和な夜だった。翌朝来る恐怖体験を、誰一人予想することはなかった。

35:勉強会

今は講師の求人をする時には、海外へ行って面接するか、インターネットで募集して書類選考をした後、電話面接で決めている。
開講間もない頃は、求人をするのに西条駅近くのサンスクエアの国際交流センターに、求人の張り紙をだしてもらっていた。

その時にカウンターに座っていたりえさんと私は意気投合した。
彼女も海外に住んでいた事があり、価値観も似ていた。
私たちは直ちに友人となった。

そしてその頃、まみさんという自由奔放な人とも知り合った。
彼女も海外に住んでいたことがあり、直ちに友人となった。

とは言っても、海外に住んだ事があるからといって、誰とでも気が合うものではない。

ということで私たち3人は、英語の勉強会を週1回行うこととなった。

家に集まり、英字新聞の要約や和訳をする、というものだった。
その勉強会は、かなり長い年月続いた。

ただ、その勉強会の80%は、自分たちの悩み事や相談事、又は面白話に費やされていた。

おかげで初めて受けた英検1級の筆記試験には、見事に落ちることとなった。

34:開講13周年

よく、会社が創立何周年で記念式典等がある、とか聞いて「ふ~ん」とまるで関心がわかない。

ところが、私にとって、毎年6月6日は自分の誕生日と同じくらい大切な日だ。
B.J.
クラブ英会話の誕生日なのだ。

特別な事をする予定はない。(仕事後は友人と飲み会があるが、BJの創立記念とはなんの関係もない飲み会だ。)

私にとって今日は、今迄支えて来てくれた人々、今支えてくれている人々、BJを大好きでいてくれている人々に感謝をする日だ。

BJ
を始めた頃の事を思い出し、今の自分に足りない物を探す事ができたら良いと思う。

(若さ???)

13年前にはなんの形もなかったものが、BJを通して沢山の人を迎え、送り出し、生徒さん同士で(あっ、講師と生徒さんも)結婚した人もいる。

英語を頑張って学習し、海外へ行ったまま帰ってきていない人もいる。

そんな大切な人の繋がりの場を提供し、影響しているのだと考えると、なんだか不思議で嬉しくなる。

これからも沢山の良い出会いがあり、英語を使う仕事に就きたい人や、海外に行きたい人のお手伝いがしっかりできますように!

33:休眠からの復活

前回のブログ更新から暫く間があいてしまった。

ゴールデンウィーク休暇があって、たまっていた事務仕事をこなすのになんだかとても時間がかかっている。

一度中断すると、際限なく停止状態に入ってしまっていた。

勉強も同じかな?と思う。一度さぼると、際限なくさぼってしまう。毎日続けるって何でも難しい。

それでも「ブログ更新まだ?」と言ってもらい、読んでもらっているんだ!と励まされて今朝やっとパソコンを開いた次第である。

前回までは、BJクラブの教室ができたすぐ後の出来事等を紹介していた。

では、気を取り直して、その後のBJクラブ、勉強方法、様々な出来事等を紹介していきたい。

BJ
クラブの教室を西条ユメタウン前に構えたものの、急激に人気がでることはなかった。

最初の5年間は一人で事務をして、レッスンを教えた。パートタイムの外国人講師には、レッスンの半分を受け持ってもらっていた。

生徒数が少ないので、一日中レッスンがあるわけでもなく、事務仕事があるわけでもなく、私は孤独で暇だった。

広島にあまり知り合いのいない私は、よく生徒さんと一緒に食事をしたり、飲み会をしたり、休日のアクティビティーと称して、スポーツをしたりしていた。

そのうち、大人対象で始めたBJクラブだったが、問い合わせを数件頂き、子ども英会話もすることとなった。

それから生徒数も少しずつ伸びていき、開業5年後にして、やっと正社員の外国人講師を一人雇えるようになった。

事務の人も初めて雇った。私が出張レッスンに行っている間だけ来てもらっていた。

勿論、私の給料は正社員講師よりもはるかに少なかった。

それでも楽しかったし、やり甲斐がった。やっと学校らしくなった気がした。

最初の正社員講師、アメリカ人のとってもかわいい女性Amandaと、事務の元スッチー和美ちゃんは、神様がもたもたしていた私にくれた贈り物(人?)ではないかと思う。

彼女達は、BJクラブを多いに盛り上げ、力をくれた。

32:クリスマスパーティー 〜恐怖編〜

店舗を持った最初の冬、教室でクリスマスパーティーを開催した。

当時、生徒さんは大人だけだった。大学生が多かった。

お酒を買い込み、カクテルを作ってだしたりした。

ダーツやゲーム等で盛り上がっていた。

真夜中過ぎに、二人の男女が床にゴロンとなっていた。

ただの酔っぱらいかと思いきや、事態はもっと深刻だった。

呼びかけても反応はなく、口から泡をふいていた。

新品のカーペットはシミだらけである。が、そんな事を言っている余裕はなかった。

慌てて救急車を呼んだ。

助けを待っている間、私は色々な事を考えた。

この子たちに万一の事があったら。。。私のせいだ。。。。

BJ
クラブもこれで終わるのか。。。

二人は搬送された。

事情を説明し、病院で治療をしてもらった。

急性アルコール中毒だった。

点滴が終わる頃には、二人とも普通の人になっていた。

後に看護士さんにこってりお説教されたそうだ。

とにかく、無事でよかった。

泡をふいていた男の子は、今や2児の父親である。

子ども達は泡ふくお父さんを想像できるだろうか?

いや、想像できるようでは、困る。

その後、パーティーは教室では二度とすることなく、居酒屋で開催している。

31:黒い部屋

BJクラブを始めて1年と2ヶ月がたった頃、家賃とパートタイム講師の給料が、生徒さんからの受講料で賄えるくらいになっていた。

(勿論自分の収入などない。)

家賃が安くて場所が良い所、と暫く探していると、見つかった。

現在、BJクラブが入っているビルだ。

ビルは古いが中を綺麗にすれば、なんとかなるだろう。。。

大家さんは、中は自分でリフォームしてくださいと言った。

壁と天井はタバコのヤニで黒く、床のタイルは半分くらいはがれていて、ドアには以前入居していた会社の看板が残っていた。

トイレの便器は真っ黒で、入り口とキッチンのドアは、色褪せてはがれていた。

夜逃げした後の、荒れ果てた事務所の一室のようであった。

それでも、なんだかいい予感がして、即契約を交わした。店舗の敷金は家賃の5ヶ月分と割高だった。

他にも最低限必要な家具もそろえたりしたので、開業資金はみるみる減っていた。

教室の壁とドアはペンキで塗った。サラリーマンの夫は、週末率先して手伝ってくれた。全ての壁を塗るのはかなりの作業だった。

床はさすがに素人には無理だったので、業者に依頼してカーペットを敷いた。

看板は、日曜大工の店で道具を調達し、自分で作った。

教室の間仕切りは、棚をおいてとりあえず間に合わせた。

こうしてなんとか、BJクラブ英会話は消滅の危機を回避し、居場所を見つけた。

30:夢、丸投げ未遂

開業してから何日たっても何ヶ月たっても、あまり人はこなかった。

毎日暇だった。

このまま続けて何になるんだろう?と思った私は、就職先を探した。

どんなにもがいても改善されない現実から、逃れたかった。

まずは某大手英会話学校が常勤講師を募集していたので応募した。

面接と英語のテストを受けた。

結果は不合格だった。

英語のテストは完璧なはず。人当たりも悪くないと思っていた私には、腑に落ちない不合格だった。

次は企業の通訳で応募した。

とんとん拍子に話が進み、最終役員面接を残すだけとなった。

その段階に来て気付いた。

私がやりたい事は何だったんだろう?

このまま長年温めてきた夢を諦めてもいいのか?

自問自答を繰り返した後、私はBJクラブ継続を決意した。

その後長期に渡り続く氷河期を知ってか知らずか、心はやや沈んでいた。

29:閑古鳥鳴く

まずは店舗を構えるのではなく、西条駅近くのサンスクエアの貸し教室でレッスンを行う事にした。

店舗の賃貸料は高いし、土地勘も無く、良い物件がすぐに見つからなかった。

サンスクエアなら、使用する時間だけの料金を払えばよかった。

それが吉とでた。あの時店舗を最初から借りていたら、300万円の開業資金はみるみるなくなり、半年後には廃業となっていただろう。

外国人講師は、同じアパートに偶然住んでいた大学の先生にアルバイトで来てもらうことにした。

広告は地方紙リビングに小さいのを5回くらいだした。

小さいといっても1回の広告は5万円する。

自宅の電話がBJの番号となったが、かかってきたのは数件だった。

下手なパソコンでチラシを作り、コピーをして西条プラザの前で配った。

皆怪訝な顔をして私を見たし、ひっきりなしに人が通るわけでもなかったので、30分位突っ立った後挫折した。

どっと落ち込んだ。

6月6日から数回にわたり無料体験レッスンを実施。

参加者数名。

6月末の生徒数は大人3名。

でもまだ始めたばっかりだし、とその時はそんなに危機感はなかった。

28:BJクラブ英会話誕生

約束の3年が終わる頃には、もうカナダへの未練はなかった。日本へ帰って念願の英会話学校を始めるのだと、意欲満々だった。

とは言うものの、当時私の描いていた学校は、私が一人で細々と教えるという、家庭教師スタイルのものだった。

社長が「どうせやるなら、人を雇って大きくしなさい」と色々とアドバイスをしてくれた。

1
年早く帰国していた夫の住む東広島市に、私は来た。

右も左もわからない場所で、一体本当に開業できるのであろうか?と不安になった。

23才で抱いた夢が7年後30才になってようやく、形になろうとしていた。

しかし、よくこんなに回り道をしたものだ。と、自分の不器用さに呆れた。

1995年4月1日に広島県民となり、市場調査や広告手配をし、同年6月6日にBJクラブ英会話は始動した。

これから到来する苦難の日々を想像する事もなく、私は浮かれていた。

27:カナダの結婚式

カナダで働いた3年の間、結婚式に4回出席した。Betty, Nellie, Corinaそして自分の。

会社に二人いる独身男性の一人と、会社に一人いる独身女性の私、その狭き選択肢の中からあえて誕生したカップルだった。

周りの皆は、優しい彼と、自分の夢を自分勝手に追い続ける私の将来を危ぶんだ。しかしその結婚生活は9年間続いた。

カナダの結婚式は、教会での式、披露宴の会場、花、ケーキ、音楽、すべて別々に自分で手配しなければならなかった。

きっとお金を出せば、コーディネーターがしてくれるのだろうけど、私が住んでいた所では自分で全てを準備するのが普通だった。

私は結婚式当日教会に入る迄、感傷に浸る間もなく、苛立っていた。ケーキに花が載っていないだのなんだの、ウエディングドレスを着て、ケーキ屋に乗り込め、とでも言うのであろうか、とにかくバタバタとしていた。

披露宴は大好きなゴルフ場のホールで行った。みんなで飲んで騒いで踊った。

私は「花嫁がよくそんなに食べるな」と言われた。

私も飲んで騒いで踊り、祝宴をおおいに楽しんだ。

ただ、着慣れないウェディングドレスとストッキングが窮屈で仕方なかった。

26:束の間の夢の日々

仕事は3年契約だった。その後延ばす事もあるかもしれないし、日本へ帰ったら本社で働いてもいいと言われていた。

社長をはじめ、日本人社員はみんなが優しくて、私は「さっちゃん」と呼ばれ甘やかされていた。

社長が開くパーティーでは、私は志願してバーテンダーをやった。短大時代に講座に通っていたので腕をふるうチャンスだった。

実はカクテルはあまり好きではないが、なんとなく面白そうだったので習ってみた。そんな意外な所では頑張るのだが、細かい気配りとかはできていなかったな、と今振り返ると反省する事ばかりである。

忙しくない時は、仕事は定時に終わった。最初のうちは剣道をしていたが、そのうちゴルフにはまり、夏は仕事の後ゴルフ場へ直行し、9ホールを回った。誰も一緒に行く人がいない日でも、一人で行ってコースを回った。

それだけやっても、ゴルフの腕は一向に上がらなかった。謙遜ではなく、本当に下手だった。ただ、楽しくて仕方なかった。

ゴルフの会員権は、1年間で4万円くらいだったと思う。それを払っていれば、いつ行っても何度行ってもいいので、格安にゴルフを楽しめた。

学生時代に過ごした極貧生活に比べると、夢のような社会人生活だった。

旅行や食事を楽しんでも、目標開業資金300万円を越える貯金が3年間で達成できた。

贅沢な日々だった。BJクラブ英会話を始める迄は…

25:英語便利屋

私の肩書きは通訳だった。名刺にもちゃんと書いてある。

ただ、通訳ができるか?と聞かれると、本当はできなかった。

それでは詐欺ではないか?

英語が話せる事と、通訳する事は必ずしも直結していない。そこにはあらゆる日本語表現を持っている事や、一般教養や専門知識、そして即刻一つの言語から他の言語へ変換するという、頭の切れが必要となってくる。

私はあいにくその中の一つも、持ち合わせていなかった。

私の仕事は、手に汗にぎる会議通訳がぼちぼち、翻訳、その会社に出向している日本人とその家族の英語サポートや、社長の秘書的仕事、日本の会社とのやりとり、日本からやってくる社員やお客様のお世話、等々だった。

いわゆる英語便利屋というところだ。

英語便利屋は、入社直後から電話交換担当の昼休憩の間、電話番をする任務を課せられた。

日本語でも新入社員で電話番をするのは辛い。それが英語である。人の名前がぎっちり書いてあるチャートを渡されても困る。

慣れない大きな電話交換機みたいなものの操作と、知らない名前と英語、三重の痛みである。

一度Harryへかかってきた電話を間違えて、人事部長のHarleyへ回して激怒された。

私の英語力もまだまだだった。

24:極道の従業員

トロント空港へ着くと、副社長が迎えにきてくれていた。

勿論初対面だった。ドキドキしながら挨拶を交わし、車へと案内された。

トロントから私が働く町、Tillsonburgまでは高速を通って2時間強の道のりだった。

車の中で話をしている時、副社長が「わし」を連発するので私は「鷲?」と自分の耳を疑った。

文脈から想像すると、それは「わたし」のことであったことは言うまでもない。

立ち居振る舞いは紳士だ。「わし」は極道ではないか?

ということは、私は極道の従業員ということか?

まずは前任者が住んでいるアパートが空くまでの2週間は、町の中のホテルで過ごすことになっていた。

そのホテルまで送ってもらい、一人になると「わし」の一件からなんともいえない不安がよぎってきた。

飛行機は夜到着で、ホテルに着いた頃はもう真夜中近くだった。

二日後の出勤だろうと勝手に思っていた。

副社長が、明日7時30分に迎えにくるから、と言う迄は。

真夜中に着いて、次の朝いきなり出勤。

どんな過酷な労働が私を待っているのだろうか?

と不安は募るばかりだった。

その夜は「わし」と「重労働」への心配に時差ボケが加わり、なかなか眠れなかった。

23:消えた課長

英会話学校へ戻り、課長に責められるのを覚悟の上、カナダ行きの一部始終を話した。

その課長は言ってくれた「君にとってはとても良い話だね、頑張っておいで」と。

彼は北九州支部の営業と教務全ての責任者だった。営業にはいつも怖い顔をしていたが、私たちには優しかった。

あの凍り付くような朝礼を統括していたのも、課長だった。

引き継ぎを済ませ、日本の友人にはまた行って来ると告げ、少ない荷物をまとめた。

両親は安心して送り出してくれた。

空港へ行く途中に広島に寄り、会社で手続きを済ませ、カナダ大使館で就労ビザの面接を受けた後、カナダへ再びバタバタと旅立った。

それから間もなく、元同僚からの知らせで、例の熱血課長の事を聞き耳を疑った。

彼はある日を境に、無断で会社に行かなくなっていた。連絡もとれなかった。

本部の人が慌てて探し、数日後にやっと発見できたそうだ。

課長不在の北九州支部は、混乱に包まれたらしい。

どうやら、燃え尽き症候群で二度と会社には戻らなかったようだ。

働き過ぎも考えものだ。

22:初めての八本松 〜広島県〜

私は小学校の修学旅行以来初めて、仕事の説明を聞くのと面接を兼ねて、広島を訪ねた。

生まれて初めて山陽本線に乗り、八本松が近づく頃、少し不安になった。

瀬野駅から八本松間がすごく長くて、しゃきっと起きているのに乗り過ごしてしまったんじゃないのか?という不安と、この田園風景の中に、カナダに工場をだすような会社があるのか?という不安だった。

胃が若干キリキリした。

無事八本松駅で降りる事はできたものの、私の胃は益々キリキリしだした。

なんでこの駅はこんなに高い所にあるのだろう?駅前がなんでこんなに閑散としているのだろう?

辺りを見渡すと、人事部長らしき方がいて、挨拶を交わし少しほっとした。

会社で仕事の説明を受けて、一ヶ月後の出発が決定した。

もう迷いはなかった。

ただ、あんなに劇的別れをして日本に帰ってきたのに、8ヶ月後にまたどんなオマヌケ顔をしてカナダのみんなに会えばいいのだろうか?という事だけが、気がかりだった。

21:嬉しい悩み事

海外に行く前には、一円でも多く貯金ができるようにケチケチ生活をし、カナダに行ってから更に極貧生活を続けた私だったが、英会話学校へ勤めるようになってからは、少し気持ちを切り替えた。

お給料は好きなように遣って、余った分を英会話学校の開業資金にしようと思った。何年かかったとしても、もうケチケチ生活にはうんざりだった。

ということで、仕事をして、同僚と食事をしたり、休日は遊んだりと、初めて人並みの社会人生活を平穏に続けた。

子どもクラスの教え方には進歩はなかったものの、その他は何の悩みも不安もなく、毎日を送っていた。

そのような時に限り、夢のような話が私に舞い降りてきた。

以前は転職したい、学校に行きたい、どれもこれも行き詰まり、苦しみながら前に進めない日々だった。

そして、亀のようにノロノロと一応は前に向かって歩き出し、あと数年で(あのペースだと10年は軽くかかっていただろう)自分の英会話学校への扉が開かれようかと思われた時、その電話はかかってきた。

それは広島の自動車部品メーカーの人事部長からだった。

要約すると、その会社のカナダの工場で通訳が必要なのでどうか?というお誘いだった。

何故そのような話を頂いたかというと、カナダの剣道友達のJanetがその工場がある町に住んでいた。

そこに遊びに行った時に日本から出向していた方の息子さんが道場に通っていて、一緒に剣道をして知り合いになった。

その後、前任者が辞めるので私の名前をだしてくださったのだった。

私にとっては、もったいないような話だった。ただ、その時は落ち着いて仕事ができていたし、入社して7ヶ月で辞めるのはとても気が引けた。悩みまくっていたら、Hilaryが丁度その時来日していて、またもや私の背中を押してくれた。

一通り私の気持ちを確認する為、質疑応答を繰り返した後、彼女は言ってくれた。

やらずに後悔するよりも、万が一ダメでもやって後悔した方がいい。

やってみないと一生、どうだったのかな?あの時あの道を選んでいたら?と後悔するだろう。

その瞬間私の気持ちは決まった。

20:英会話学校で働く

私の主な仕事は、朝のテレフォンレッスン、週2回の受け持ちクラスのレッスン、非常勤講師から出退勤を知らせる電話の応対、等々だった。

営業と教務は薄い壁一枚でしきられていたが、営業の朝礼は聞いているだけのこちらが凍り付くほど厳しく、気合いが入っていた。

それに比べ教務は、朝からコーヒーを入れたりしてのんびりした雰囲気だった。

教務には、常勤講師が私を含め3名、事務2名がいた。

なんだか、ほんわかとしていた。

岩田屋で、勤務時間中ずっと360度気を使って、お客様に目を配るのとは違っていた。

仕事は楽だった。

ただ、私はまたしても自分が重大なミスをしている事に出勤初日に気付いた。

その英会話学校は、子ども向け英会話で、大人は一切教えていないのであった。

ちょっと値段のはる教材を買って頂き、レッスンに来て貰うというカラクリだった。

私の目指すのは大人向け英会話学校であり、子ども向けではなかった。

当時子どもにどう接したら良いのかなど、全くわからなかった私は、なんとか与えられた課題をこなすのが精一杯で、激しく飛び跳ねる子ども達を全くコントロールすることができないでいた。

悩みの種はその一つだけ、暴れる子ども達を、いかにこちらに振り向かせるか、だった。

その悩みが解決される日が、その学校に勤務している間に来る事はなかった。

19:英語学校へ就職する

帰国した翌日の朝、駅で購入しておいた求人情報をパラパラっとめくっていたら、小倉にある英会話学校の、正社員講師の求人広告があった。

英会話学校を始める前に、現場で数年間勉強したいと思っていた私は、それをみた1秒後には、電話の受話器を握っていた。

その次の日には、岩田屋時代にもっていた自分の中で1番いい服を着て、面接に行った。

人事の人は即決で、私を雇ってくれた。人手不足で焦っていたようだ。

次の週の月曜日からの出勤が、その場で決まった。

家に帰って報告すると、両親は喜んでくれた。でもその喜びの中に、何も言わないけれど、一抹の不安があるようだった。

また岩田屋の時のように、入社した途端辞めたいと言いだすのではないか、と心配していたようであった。

私には不安は1%もなかった。

これが私の目指す英会話学校開設への道なのだと、疑いもしなかった。

初めて、自分の受け持ちの子どもクラスを見るまでは…

18:帰国途中の出来事とスーパー主婦

カナダからの帰りの便は、トロントからバンクーバー、ソウル経由で福岡着の大韓航空だった。ソウルでターミナルを移動しなければならなかったので、飛行機の中でキャビンアテンダントに、どのターミナルへ行ったらいいのかを尋ねた。

飛行機から降りると、笑顔が素敵な一人の若者が私を待っていて、彼は私をエスコートして、滑走路内にある30人は乗れる大きさのバスへと案内してくれた。そのバスには彼と私、二人しか乗っていなかった。しかも目的のターミナルに着くと、チェックインカウンターまで連れて行ってくれて、カウンターの人に事情を説明し、チェックインする私を後ろから見守ってくれていた。そして次の便はこれだから、乗り遅れないように、と言って去って行った。

大韓航空はいつもこんなにサービスがいいのか?26才の私を子どもだと勘違いしたのか?私の頭の中には?マークが飛び交っていたが、感謝をし、それから半日、空港内で福岡行きの便を待った。後にも先にも、あんなに空港で親切にしてもらったことはない。

当時の私は、必要な物は質が悪かろうと、最低値で手に入れるという事を誇らしくポリシーとしていた。

航空券も例外ではなく、どんなに乗り継ぎが悪かろうと、最安値のものを手に入れなくては気が済まなかった。

長い旅を終え、福岡に着くと私はまっさきに駅の売店で、求人情報誌を一冊手にいれた。

我が家へ戻り、2年ぶりに母の手料理をお腹がはちきれそうになる迄食べた。

母の料理は最高に美味しい。私は友人をよく家に連れていくのだが、友人達は口を揃えて母の手料理を褒めてくれる。

家にはいつ帰っても埃一つ落ちていない、母はスーパー主婦だ。

カナダで恋しかったナンバーワンは、母の手料理だった。

その娘の私はというと、当時は料理も掃除もできないダメ娘だった。実家では全て母がやってくれ、カナダでもJacquiとBettyが世話をやいてくれていた。冷蔵庫の残り物でも何品か作れるようになったのは、つい数年前の事だ。

両親とゆっくり食事をし、自分の部屋で久々に眠りにおちる頃には、なんともいえない安心感が私を包みこんでいた。

17:さよならカナダ

卒業式が無事終わり、皆に別れを告げ、私はカナダを後にすることとなった。

グリズリー(一緒に2年間過ごした犬)は、私がパッキングをしている時から私がいなくなってしまう事に気付いていた。

スーツケースを持って家を出る時、グリズリーが動揺すると思い、涙をこらえた。でも最後にギュット抱きしめずにはいられなかった。

グリズリーは、いつも私を支えてくれていた。誰にも言えず、英語やら勉強やらで落ち込んでいる時、グリズリーは悲しそうな顔をしながら、私の側にいつもいてくれた。

特に犬好きではなかった私だったが、とても大切に思える犬となっていた。

皆が空港まで送ってくれた。

カナダに行った時には知り合いは二人だけだったが、二年間で私は沢山の宝物を手にしたのだと、その時改めて感じた。

飛行機の中で、暫く涙が止まらなかった。

16:就職活動 ~当たって砕けたカナダ編~

短大が終わる頃、もう少しカナダにいて自分の力を試してみたいという思いから、就職先を探すことにした。

その頃には少しは現実と夢の違いを認識できるようになっていた私は、カナダ人と同じ土俵で戦えない事を悟っていた。会社は、特に取り柄のない新卒を雇うのであれば、間違いなく日本人ではなくカナダ人を採用するだろう。日本人を雇うとなると、就労ビザを申請しないといけないし、英語ができるようになったからと言って、大人になってから学習を始めた日本人が、ネイティブスピーカーと全く同じようにコミュニケーションできる訳ではなかった。そんな見ず知らずの日本人を雇うよりも、カナダ人を雇った方が手間が省けて即戦力にもなる。

ということで、短大の求人情報は最初っから見ていなかった。

日系企業で探そうと、トロントで日本人向けに発行されている新聞の求人欄をくまなくチェックした。

一つ目に留ったのがマクドナルドの経理の仕事だった。早速連絡をとると「面接にきてください」と言われ、トロントの中心部からかなり長い間地下鉄に乗って、私はその郊外にあるマクドナルドへ行った。

そこの日本人オーナーは、最初から英語で私に話しかけて来た。私も英語で終始受け答えをした。色々と話をして、今日は来てくれてありがとう、とマックの食事券をくださった。

手応えはあった、と思っていたが後日「君もよかったんだけど、決めた人は経験があるんだよ。君は二番だった」と言われた。

終始2番手で終わったカナダ生活であった。

がっくり肩を落とし、一社に断られただけなのに、なんだか疲れて「日本へ帰ろう!」と思った。

15:カナダ卒業

その地に住むという事は、訪れるという事と意味が違うのだと思う。6ヶ月のオーストラリアは楽しいばかりだったけど、カナダでの2年間は、楽しいより辛い方が多かったような気がする。

その中で沢山の人たちが私を支えてくれた。家族のように接してくれたJacquiとBetty。家が近くて毎日学校の送り迎えをしてくれたカディージャ。よくご馳走してくれたCorina。お金のない私を、週末は映画や食事に連れて行ってくれたFrancis。ここに書ききれない人も沢山いる。皆がいなければ、私は途中で挫折していたかもしれないし、JacquiとBettyと出会っていなければ、カナダには行ってなかっただろう。

出会いに本当に感謝している。いつか恩返しをしたいと思いながら、なかなか果たせないままでいる。

Francisともその後ずっと交流が続いていたが、つい最近やっと彼にも彼女ができた。私も自分の事のように喜んでいた。しかしその後ぷっつり音信不通になってしまった。幸せだという事だろうと思い、そっとしておくことにした。

カナダで勉強した事は、その後BJを立ち上げて運営していく点において、とても役立っている。真面目にとりくんでいてよかった。

卒業課題を次々とこなし、そのまま放置していたら卒業できそうにないNellieの卒業課題を泊まりこみで手伝い、私の短大生活は終わりを迎えた。

14:ポインターシスターズ 〜カナダアジア人編〜

夏休みが終わり、学生生活2年目に突入した。私は相変わらず頑張って勉強を続けた。1年生の時のように時間はなかった。友達と遊んだり剣道をしたり、パーティーに行ったりで結構忙しかった。それでも誰よりも真面目に勉学に取り組んでいた。

そんなある日、学校でくちパクコンテストがあった。

同じ授業を受けていたNellieとNancyは何故か私を誘ってくれ、3人でくちパクコンテストにでることとなった。

それから私たちは多忙な日々を過ごした。まず、3人で集まってはポインターシスターズのビデオを見ながら、振り付けを練習した。

ポインターシスターズは一世を風靡した3人の黒人女性グループだ。

I'm so excited
 という大ヒット曲の振り付けを、私たちは来る日も来る日も練習した。

最初は笑いながら和気あいあいとしていたのだが、そのうち皆本気になってきて、一人が間違えたりしたら誰かがむっとするのだった。

私はドキドキしながらも、必死にポインターシスターズに少しでも近づこうと練習に励んだ。

くちパクコンテスト当日、私たちは事前に入手しておいた、ちりちり毛のカツラをかぶり、顔には黒に近いファンデーションを塗りたくり、3人でお揃いの黒のスカートのスーツを着て晴れ舞台に立ち、ガンガンに歌が流れる中、力の限り熱唱するフリをしながら、踊りまくった。

曲が終わると大歓声の嵐だった。冬だとういうのに汗が頬をつたって流れた。

残念ながら私たちは優勝には一歩届かず、2位で終わった。

ここでも賞金は手に入らず名誉だけをもらう事になった。貧乏な時はとことんお金に縁がないものだ。

何年たった今でも、あの曲を聞くと私の血は騒ぎだし、体が小刻みに動きだしてしまう自分を止められないでいる。

13:極貧生活

カナダに留学する時、岩田屋時代にケチケチ生活に徹し貯金したお金が全部で200万円位あった。2年間の授業料が120万円で残ったお金は80万円だった。

私は無謀にも、その80万円で2年間を乗り切ろうとしていた。1年間40万円1ヶ月3万3千3百円の生活費ということになる。そこからJacquiとBettyがむちゃむちゃ安くしてくれた家賃と食費2万円を支払うとお小遣いは1万3千3百円だった。

自転車は思い切って買ったが、その他の無駄遣いは一切しなかった。2年間洋服も下着すら買わなかった。

その時の写真を見てみた。

Jacqui
が仕事場でもらってきたモルソンドライ(ビールの名前)のTシャツと色焦てのびのびになった黒いショーツをはき、私は誇らしげに写真に収まっている。モルソンドライのTシャツは、バーで大音量の音楽がかかっている時、自分の着ているTシャツをまたまた誇らしげに指差せばウエイトレスが注文を遠くからでもわかってくれた。とても便利でお気に入りの一枚だった。

結局帰国三ヶ月前くらいに私のお金は底をつきた。(当たり前だ)

その時両親に初めて甘えた。両親は余るくらいのお金を送ってきてくれた。

あの時餓死せず、無事カレッジを卒業し帰国の途につけたのも全て両親あってのことだ。心から感謝している。

12:カナダの夏休み 〜恐怖編その2〜

夏休みは長かった。二ヶ月とちょっとはあったような気がする。そんなに長くてもやることがないので、私はトロントで夏休みを過ごそうと決めた。

最初はオンタリオプレイスという遊園地みたいな所でアルバイトが決まっていたが、ビザが間に合わず研修だけ2日受けて結局バイトはできなかった。

そこで夏休み中プラプラする事に決めた。トロントはキッチェナーに比べるとすごく都会で楽しかった。日本人も沢山いた。久しぶりの日本語に心が温まった。トロント大学の寮は夏休みの間解放されていたので、そこに住む事にした。シャワーとトイレが男女兼用だったのが嫌だった。

ジムの夏休み学生会員になり、毎日そこで暇をつぶした。中古自転車を買い、その自転車でトロントの街中を自由に駆け巡った。

そしてトロントで出会った忍ちゃんを説得し、二人で自転車に乗り、トロントからナイアガラまでの旅をする事となった。

車で行くと高速を通って約二時間、片道130kmの道のりだった。自転車は一般道を通って行くので片道150kmという所だろうか。道中2泊してナイアガラまで辿り着いた。自転車用のショーツは着ていたが、途中でお尻が痛くなった。ナイアガラでぷらっとした後、忍ちゃんは勇気をだして私に「バスで帰ろう」と言ったが、私はまたまた忍ちゃんを説得して、自転車でトロントまで戻ることにした。

帰りは道に迷い雨が降っていた。コンディションは最悪だった。私は忍ちゃんがまたバスで帰ろうと言いだすのを恐れ、次は私が勇気をだして言った「ハイウェイに乗ろう!」忍ちゃんは疲れ果てていたので判断力が鈍っていた。私に言われるがまま自転車でハイウェイに乗り、私たちは高速で車が通り抜けて行く中ヘルメットをかぶり駆け抜けた。今思えば青春の1ページである。しかし、想像できるであろうか?高速道路を自転車で通行することを?

私たちは何度もクラクションを鳴らされ、後悔の念がよぎる中、一歩間違えば死んでしまうという恐怖を感じながらひたすら駆け抜けた。

あの時忍ちゃんはきっと人生最大の後悔をしていただろう。

生死の境を共にした忍ちゃんは今頃何をしているのだろうか?

11:6ヶ月目の奇跡

大学生活6ヶ月目に入った頃、突然みんなが何を言っているのかわかった。そしてトントン拍子に、グループの中での話も結構できるようになっていった。一緒に授業を受けている子達も話かけてくれるようになって、その中の5才年下のCorinaと気が合った。週末にはよくCorinaの家に泊まりに行っては、彼女のお父さんがご馳走を作ってもてなしてくれた。Corinaとも今でもメールで近況を報告しあっている。彼女は電撃結婚の後、電撃離婚をしてまた電撃結婚をした。

この6ヶ月目を境に私の生活は好転していった。人と知り合う機会作りに、と剣道を再開した。近くの大学の剣道部に練習に行く事になった。カナダは結構剣道人口が多く、沢山の人と知り合い、練習をして、沢山のパーティーへ参加することとなる。

ただ、やはり英語で色々な勉強をする事はまだ難しかった。テスト前には「経済が難しい」と言うとJacquiが私の教科書のテスト範囲を熟読し、要点を書き出して「これをしっかり覚えなさい」とそのノートをくれた。

Jacqui
とBettyは私を年下の妹のように可愛がってくれた。掃除や料理もいつも二人がやってくれて、私はいつも甘えてばかりいた。

家には犬(グリズリー)と、猫(スパズ)がいた。グリズリーの散歩だけは私がよく行った。グリズリーは大きな犬でとても賢かった。スパズは小さくてとても可愛らしかった。犬と猫なのに妙に仲が良かった。

6ヶ月目からは時が足早に過ぎていった。ビジネス英語のテストで私はクラスで最高点をとった。先生が皆の前で褒めてくれた、と同時に「あなた達英語が母国語なのにサチコに負けてどうする」と怒っていた。

皆に相手にされていない頃勉強ばかりしていたので、1年の成績はオールAだった。その学年の最優秀生徒の候補者に選ばれ、エッセイを書いて2番になった。

1
番の人は賞金をもらっていたが、2番の私は名誉だけをもらった。

10:わからない英語

日本の新学期は4月だが、カナダの新学期は9月だった。意欲に燃えまくり大学へ行った。やはり自分で貯めたお金で通うのは、重みが違う。が、始まって間もなく非情にも先生方はストへ突入した。しかも数日、とかでなく、それは2ヶ月近く続いた。勉強する為に遥々海を渡って行った私にとっては、非常事態だった。JacquiとBettyは仕事があるし、他に誰も知っている人もいないし、やることもないし、お金は使えないし。私は途方に暮れた。

が、時は過ぎていき、昼ドラなどを見ては新しい言葉を覚えたりしているうちに、学校は再開された。

授業では、マーケティング、会計、ビジネス数学、コンピューター、経済、ビジネス英語、心理学等を勉強した。一番やっかいだったのが心理学だった。難しい言葉がいっぱいでてきて訳がわからなかった。しかも先生の言う事はだいたいわかるのだが、クラスメートが話す若者言葉がちっとも理解できず、クラスの皆が笑っているのに、私だけ笑う事ができずにいた。

留学生はそのキャンパスで私一人だった。日本人は誰一人いる筈もなく、苦しみを分ち合う人はいなかった。

英語は一対一で話すことはできるのだが、グループになるとやっかいだった。話を聞きながら、次これ言おう、と思ったときには次の話題へと移っている。完璧に何の話かわからなくなってボーッとしていると、祥子はどう思う?とか聞かれて、返事に困る事も度々あった。

自分が駄目な人間に思えた。私はただひたすら毎日勉強に明け暮れて、自分の駄目さを忘れようとした。

9:恐怖の魚釣り

カナダについて間もなく、JacquiとJacquiの彼Edがキャンプに連れて行ってくれた。目的地に着き、夕食の準備までには時間があったので、湖で魚釣りをしようということになった。カナダの湖は海のようだった。Edは私にやり方を教えてくれた。それじゃあ、と釣り竿をふり、釣り糸と重りを投げ込んだ。魚釣りはあれが最初で最後だったので、なに釣りか等は全然わからない。とにかく遠くをめがけて竿をふった。次の瞬間なにがあったかわからなかった。ブーメランのようにその釣り針と重りは私の方へ戻って来て、私の瞼につきささったのだった。慌てたJacquiとEdは私を毛布にくるみ、車に乗せ、救急病院へと運んだ。短い道中だったが、心配が頂点に達したからか、私の瞼についた物が気持ち悪くてたまらなかったのかJacquiは気分が悪くなり、車を止めてゲロっていた。それでもなんとか病院へ辿り着き、私は手術台に乗せられ、ほんの3分位でお医者さんは上手に針をとってくれた。私の瞼にはよく見ると小さな穴があいていた。幸い目には傷ひとつついていなかった。私たちの魚釣りはほんの5分で終了し、2度と魚釣りをすることはなかった。この先も、魚は食べても一生魚釣りだけはしないだろう。その後Jacquiは、あの恐怖の重りをお守りがわりにずっともっていて、時々私に見せてくれた。

8:岩田屋へ舞い戻り、カナダへ旅立つ

帰国するとすぐ、岩田屋へ出勤した。半年前にはちょうどよかった制服が、ボタンがややはちきれそうな位ピチピチだった。まず人事に行き復職する部署を聞かなければならなかった。誰にも言わなかったが内心私は期待していた。海外買い付けとか、英語を活かせる部署だとか…その期待は玉砕された。私はハンカチ売り場に戻された。今思えば当たり前の事だ。気を取り直し、休職扱いにしてくれた上司の為にも、暫くは頑張って働く事にした。また同じ生活が始まった。

そんなある日、岩田屋ではブリティッシュフェアが開催され、イギリスからバグパイプやなんやかの職人さん達がやって来て、その腕前をお客様の前で披露するというイベントが一週間だと思うが、開催された。私はその中の一人でロンドンバッジや刺繍をするHilaryの通訳についた。Hilaryは私より15才位年上で、初対面の時は怖かった。フェアの間毎日、私は仕事が終わるとイギリス人軍団を福岡の街へ連れ出した。定休日にはグルグルと福岡を案内した。とても楽しい一週間だった。通訳は難しかった。半分はったりでやった所もあったような気がする。あれが大金のかかった交渉事だったらと思うとぞっとするが、そんな事を任されるはずはなかった。一週間が終わる頃、Hilaryと私はとても仲良くなった。その後Hilaryは私が大きな選択に迷ったとき、必ず名言を残し、私をいつも支えてくれた。

それが刺激となったのか、私は1年後にはカナダで現地の人が通う大学に学部入学しようと思った。費用を計算すると4年制大学はとても無理だったので、2年制の短大に行く事にした。入学する為にTOEFLで当時のスコアで520点以上とらなければならなかった。とりあえず現地に行って勉強しながら、という時間的金銭的余裕のなかった私は、必死に勉強してTOEFLぎりぎり520点を取得した。勉強方法は、本屋でTOEFL500点突破!みたいな本を一冊購入し、その一冊をじっくり頭の中に叩き込んだ。入学条件は、そのTOEFLスコアと高校の成績証明書が必要だった。高校卒業しといてよかったと、あの暗い高校生活を思い出した。入学手続きは代行を頼むとお金がかかるので全て自力でやった。留学先はBettyとJacquiの住む街にしようと決めた。寮に住むよう申し込んだのだが、そう報告するとJacquiは勝手に学校へ行き、私の寮の契約を白紙に戻し、私たちと一緒に住みなさいと言い放った。

両親はもう反対しなかった。祥子が決めた事だから大丈夫だろう、と言ってくれた。岩田屋の人たちも気持ちよく、中州のクラブを貸し切って盛大な送別会で送り出してくれた。

岩田屋の人たちは本当にやさしく良くしてくれた。宴会の時は日本一楽しかった。沢山の色々な事を私にやさしく教えてくれた。

ということで復職から1年後,カナダはオンタリオ州のKitchenerという大きくも小さくもない町のConestoga Collegeでビジネスの勉強を2年間する事となった。ビジネスにした理由は自分の英会話学校を始めたい、という気持ちからだった。トロント空港へBettyとJacquiがはりきって迎えに来てくれ、私のカナダ生活が始まった。

7:残り2ヶ月 クージービーチとアパート暮らし

3キロ太ってシドニーへ戻った私がまず最初にしたことは引っ越しだった。引っ越しといっても、大きなバッグ一つしかなかったので、バスに乗って引っ越し先に行っただけだったが…旅行に一緒に行った久美子が間もなく帰国するということで、そのアパートに空き部屋がでる。見てみるとクージービーチまで水着のまま歩いて行け、楽しそうなお店なんかもある町で、一目で気に入った。ジョンソン夫妻の所で居候するのも少し気が咎めていたので、即決した。ジョンソン夫妻は私が出て行くというので心配されたが、居心地はとても良く快適に過ごせた事、友達の所で暮らしたいという事、を説明すると納得し笑顔で送り出してくれた。

そのアパートには、久美子と久美子の友達の日本人とその友達のオーストラリア人とが住んでいた。私が引っ越して間もなく、コンティキツアーで知り合ったカナダ人のBettyが転がりこんできた。Bettyは仕事を辞めて長期旅行で親友のJacquiとオーストラリアに来ていたので、彼女も自由気ままだった。Jacquiは仕事があるのでツアーの後帰国した。

という事で、不思議な共同生活が始まった。日本ではあまり浸透していないが、海外では家賃を少しでも安く上げるため、アパートをシェアするのは常識だ。

久美子が帰国し、残りの2ヶ月はBettyといつも一緒に遊んだ。ビーチに行ってボーっとしたり、その横にある無料のプールでアップアップしたり。Bettyは私に沢山の英語のシャワーを浴びせてくれた。私もお返しに日本語シャワーを浴びせようと思ったが、興味がないらしく「おはよう」だけ覚えた程度だった。Bettyは常識あるカナダ人でとても気があった。Bettyとの交流は帰国後もずっと続いて行くこととなる。その話は今後カナダ編の所にでてくることとなるが、今でも良い友達で、カナダに行く時には必ず会うし、メールのやりとりもしている。ひょんな出会いから20年間も絶えず交流が続いているのは奇跡のようなものだ。大切な出会いに感謝する。

たっぷりと時間があり、ストレスは一つもなく、とても自由な生活はあっという間に過ぎて行った。「このまま時よ止まれ!」と思っても止まるわけはなかった。

帰国の日が来て、私は6ヶ月で6キロ太った体で、シドニーを泣く泣く後にした。その際パスポートをシャツの中に入れる事はもうしなかった。

6:憧れのシドニー ホームステイと大旅行

シドニー滞在三ヶ月目に突入する頃、以前からジョンソン夫妻に「うちで暮らしなさい」と言って貰っていたので、もう下宿の食事にもうんざりしていた私は、お言葉に甘えてホームステイをさせてもらうことにした。しかも滞在費はいらない、と言われる。それでは申し訳ないからといくらかでも出そうとすると、いらないから、と言われる。結局1セントも受け取ってくれなかった。ありがたく申し訳なく感謝の気持ちで一杯だった。

後に両親が親日家のジョンソン夫妻に立派な博多人形を送ってきてくれた。ありがたかった。

ジョンソン家に住み、その頃7才くらいだったピーター君とよく遊んだ。ピーター君は私の良き英語の先生であった。とても可愛らしく良い子だった。今頃どんなにかっこいい好青年になっているのだろうかと思い、よくよく計算してみると、もう彼も27才。時の経つのは早いものだ。

3ヶ月の英語学校が終わる頃、残りの3ヶ月をどう過ごそうかと考えた。その英語学校はなんだかいい加減経営だった。先生はよく休むし、代行はいないし、先生によってクラスが全く違うし。この時に「私だったらもっと生徒側にたった英会話学校ができるのに」と思ったのが、BJクラブの誕生の源となった。

ということで英語学校は続けず、プラプラすることに決めた。

そこで、同じクラスだった久美子と旅行に行く事にした。先ずはコンティキツアーとうい現地で扱っているツアーに参加することにした。旅行代理店で色々と決めるのだが、久美子の方が断然英語が上手だったので、私は横で、それでいいよ、とか今なんていったん?とか聞いて邪魔ばかりしていた。結局バスツアーでシドニーからケアンズまで約2週間の旅、その後解散して二人でエアーズロックとパースを巡り、インディアンパシフィック号(鉄道)に乗りパースからシドニーに戻るという壮大な旅となった。全行程一ヶ月である。

ツアーにはアメリカ、ヨーロッパ、カナダ、オーストラリア、色々な国から色々な人が参加していた。ウォータースポーツや観光、夜は毎日パーティーだった。それはそれは楽しかった。大自然を体感し、色々な人と出会い、話をし、色々な生き方や考え方がある事を知り、刺激を受けた。

その後の個人旅行の時、クリスマスの日にパースにいたのだが、殆どのお店やレストランが閉まっていた。なんにも知らなかった私たちは、飢えていた。ホテルのレストランは開いていたけど、そんな値段の高い所では食べられない。たまたまコンビニのような小さな店が開いていてクッキーが手に入り、今日の夕食はこれだねっていいながらトボトボと二人でホテルまでの道を歩いていた時、パースの空港から街まで乗せてくれたシャトルバスの運転手さんが丁度通りかかり、止まってくれた。事情を話すと、僕の行きつけの中華料理の安いお店があるからと、私たちをバスにのせ、レストランへ連れていってくれた上にごちそうまでしてくれた。世の中なんていい人ばかりなんだろう、とその時また思った。

一ヶ月の旅行を満喫し、一ヶ月で3キロ太ってシドニーへ戻った。

5:憧れのオーストラリア〜屋根裏部屋と水あたり

「海外は危ない所だよ」とさんざん皆から脅されていた私は、同僚がくれた手作りの袋にパスポートを入れ、首からさげてそれをシャツの中へしまい、オーストラリアへ旅立った。チェックインや入国カードの記入でパスポートが必要な時に取り出すのがとても面倒だった。後にそんなことまでしなくていいと気づいたが、その時はビクビクしていた。ビザはワーキングホリデイを取得した。3ヶ月は英語学校だったけど、残りの3ヶ月は学校を続けるかは現地で決めようと思っていた。英語学校と下宿は、日本から手続きをして決めていた。下宿に着いてから少し説明を受け、部屋へ通された。私に割り当てられた部屋は、ベッドと机があり、ほとんど歩くスペースのない屋根裏部屋だった。気をつけてベッドから起き上がらないと、斜めになっている天井で頭を打った。私の部屋の前は皆が使用するバスルームだったので、いつもざわざわしていた。それでも生まれて初めて自分の城が持てて嬉しかった。

下宿代には朝食と夕食が含まれていた。私は好き嫌いなくなんでも食べる方だが、どうやったらあんなにまずく料理ができるのか、理解できないくらいに美味しくなかった。

下宿には、日本人、台湾人、韓国人、インドネシア人、年配のオーストラリア人等、様々な人種がいた。なるべく色々な人と話をするようにしていた。ある日、他の下宿部屋を見てみると、私の部屋より断然良かった。同じ料金なのに…下宿の責任者の所へ行き、「部屋をかえてくれ!」と言うと「丁度君に良い部屋があって、言おうと思っていたんだ」と調子の良い事を言われた。早速別の部屋へ通された。そこはまるで天国だった。今迄の3倍くらいの広さの上に屋根裏ではない。しかも角部屋で、テレビと流しまでついていた。その時私は「言った者勝ち」という言葉を実感した。

オーストラリアの水道水は悪くないと言われていた。しかし、気をつけて水道水は飲んでいなかった。歯磨きや野菜を洗った後等で、体内に入っていたのだろう。嘔吐下痢が3日くらい続き、ヘロヘロになった。福岡で知り合ったジョンソン夫人が病院へ連れていってくれ、お医者さんに薬を貰った。飲んだらケロっと治った。保険に入っていなかったので覚悟していたら、ジョンソン夫人が支払いをしてくれた。ありがたかった。

ドタバタしながらも、毎日電車に乗りハーバーブリッジを通り「いい風景だな~」と感動して学校へ行き、12人位のクラスで授業を受け(授業は悪くはなかったが、先生が風邪で休みの日はビデオだけ見せられ、なんたる手抜きと憤慨していた。)授業が終わると街をブラブラしたり、映画を見たり、船に乗ってすぐのマンリービーチへ遊びに行ったりして、シドニーを満喫した。週末にはジョンソン夫妻がキャンピングカーでキャンプに連れ出してくれた。自然と街が共存していて、オーストラリアの人達は気さくで、大変気に入りずっとここに住みたい!と思った。

英語の方は、発音が悪く簡単な言葉も通じなくて意気消沈することもあったけど、めげずに機会ある毎に喋りまくった。
実は本来、私はお喋りではなく、常に人の話を聞いている側だったのだが、少しでも上達する為無理してお喋りになる努力をした。

こうして私のシドニーでの最初の2ヶ月は、ドタバタワクワクしながら続いていった。

4:とりあえず始めた英語の勉強

19才だったか20才だったかよく覚えていない。とりあえず何か身に付けようと思いたった私は、職場近くの英会話学校を二校ほど訪問し、受講料の安い方に決めた。初級クラスで教室には20人位の生徒がいた。高校のように教壇があり、生徒の机は教壇に向かい並んでいた。生徒が多いので先生と直接話せるチャンスは殆どなかった。週2回仕事の後に休まず通った。それと同時にアルクのヒアリングマラソンを始めた。通勤の往復2時間、ひたすら聞きまくった。休みの日は、ヒアリングマラソンの本を読んで、通勤時に聞いている事は本当は何を言っているのかをチェックしていった。暫くしてから実用英語検定2級の勉強も始めた。

暫くは仕事、英語の生活を続けた。そんなある日、ツアーコンダクターって楽しそう、と思い立ち、専門学校から資料を取り寄せた。バイトしながら東京の専門学校へ通おうと思った。またまた皆に猛反対された。泣く泣く専門学校へ行くことは諦めた。そしてまたある日「青年海外協力隊」に応募した。剣道をずっとやっていたので(岩田屋でも剣道部があり所属していた。)スポーツで受験した。一次試験はパスし、東京で面接があった。二次の技能面接と一般面接で落とされた。

とにかく仕事と英語だけは続けた。天神で外国人が道に迷っていたら必ず声をかけたりした。そこからお友達になった人までいる。ある日、本屋で良い英語の本がないか探していたら、オーストラリア人の男性が声をかけてくれた。

「英語勉強してるの?」と聞いてきたので「そうです」と軽くドキドキしながら英語で会話を交わした。レジに行くとその男性と奥さんがいて、なにやら店員と意思疎通ができていなかったので、はりきって駆け寄り、つたない英語で通訳をした。それからその夫妻と話をして、福岡はこんな所ですよ、ここがいいですよ、とか教えてあげた。次の日、岩田屋のハンカチ売り場に夫妻は訪ねてきてくれた。仕事が終わってから一緒に食事をした。滞在中何度か会い「必ずオーストラリアにおいで」「必ず行く!」と約束を交わした。

その日から、私の夢はオーストラリアに行く事に変わった。

行くのなら1年位住んでみたい。早速両親に相談したが、勿論猛反対された。

そこで私は「よし!猛反対できないように、自分で貯金して、英語が喋れるようになってから行ってやる!!!!!」と決意した。

それからは仕事、英会話学校、ヒアリングマラソン、自宅学習の日々を来る日も来る日も続けた。車のローンは月々10万円位の給料から2~3万ひかれていたのできつかったが、服も買わず、何も買わず、私はひたすらオーストラリア行き資金を貯金した。気の毒に思った岩田屋の同僚は、よくおさがりを私にくれた。実家から通っていたのでローンを払った残りの給料は殆ど貯金にあてた。

英検2級に合格し、貯金もオーストラリアで1年は暮らせるくらい貯まった頃、私は23才になっていた。なんのかんのいいながら18才で就職し5年間も岩田屋で働いていた。石の上にも3年はとっくに過ぎていた。
畳の上に正座し両親に貯金通帳と2級の合格証を差し出し「これだけ貯金しました。英語も結構勉強しました。行かせてください」とお願いした。今度ばかりは両親は反対できなかった。「わかった。行っておいで」と言って貰えた時は本当に嬉しかった。18才から23才まで、私の思いつきにことごとく反対し続けた両親。それは愛情あってのまさに親心であったことは、後にわかることとなる。その時の私には、まだよくわかっていなかった。

心躍らせ、岩田屋の上司にこれこれこういう理由でやめます、と告げるとその上司は人事にかけあってくれ、半年間の休職扱いにしてくれた。岩田屋初まって以来の新制度を、こんな私の為にわざわざ新設してくれた。本当にありがたかった。両親もこれで安心してくれた。

そうして私は岩田屋を半年間休職し、オーストラリアはシドニーにめでたく旅立つことになった。

3:18才、家出未遂事件後の私

両親をはじめ多くの大人から「石の上にも三年」どんな仕事も辛い事の方が多い、仕事が一人前にやれるようになって初めて人間的に成長するんだ。一つの事がやれない人間は何をやっても駄目だ。延々と説教され「三年とにかく頑張りなさい」と言われ、「よし、じゃあ3年間やってみよう」と気分をいれかえ、私のOL生活は再スタートした。先ずは一流の販売員を目指し、毎日真面目に仕事に取り組むことにした。職場の皆は暖かく見守ってくれた。笑顔で帰って行くお客さまを見送り、充実感に浸ることもあった。通勤は相変わらずしんどかったけど、仕事が終わり、食事に行ったり遊びに行ったりして、毎日を楽しんだ。仕事も少しずつできるようになっていった。入社から1年後、同じ一階のハンカチ売り場に異動を告げられた。当時岩田屋のハンカチ売り場は、売り場面積あたりの売上高が日本一だったらしい。それは、販売員はむちゃくちゃ忙しい事を意味していた。開店から閉店まで、お客さまがひくことはめったになかった。その時にはガラガラになった商品の補充に追われた。進物が多いので、私はハンカチの箱詰めと包装を、もの凄いスピードで、その上ビシッときれいにできるようになっていった。暫くは私の周りの人にとっての平穏な日々が続いた。

そうしている毎日の中でも、私の中で「これでいいの?」という問いかけは消えることはなかった。高卒、女性。いくら女性に開かれた百貨店の職場でも、昇進して行くことは難しいだろう。と半人前のくせにそんなことだけは考えた。ただ、すぐに転職をしようとしてもいい仕事などないし、何の取り柄もない私は、どこに行っても同じだという事は、その時には自分なりに理解していた。それならこのまま岩田屋で一流販売員を目指した方がいい、とも思った。そんなある日、ひらめいた。「働きながら何か特技を身につけよう」理数系が駄目な私は、資格の本を買い、消去法で自分に合ったものを探していった。たどりついたのは、英語だった。それが直接仕事に結びつくかどうかは分からないけど、転職の時に有利になりそうだった。それから私の英語勉強人生が始まった。

2:暗いOLの日々

高校の進路相談室で、あまり数のない求人情報のファイルをパラパラっとめくっていたら「岩田屋」(百貨店)の求人が目に留まった。目に留まった最大の理由はボーナスが年3回という所だった。(後に春のボーナスは雀の涙である事が判明)。北九州市と福岡市の間のベッドタウンに住んでいた私は、「福岡市内の繁華街に毎日行けるなんていいな」「どんな楽しいことがあるんだろう?」と心躍らせた。とんとん拍子に私の就職は決まった。本当に何も考えていない、世間知らずな18才だった。高校生活最後の部活も終わり、就職も決まり、運転免許も取得し、仕事が始まるまでの毎日は、本当に楽しかった。調子にのって仕事も始めていないのに、頭金なしのローンで車まで買った。(後悔する事となる。)4月になり、私のOL生活は始まった。実家から駅迄はローンで買った車で10分。駅から博多まではJRで35分~45分。それから地下鉄に乗り換えて6分位。乗り換えがあるのでトータル1時間は軽く片道でかかった。JRでは座れる日もあれば、立ちっぱなしの日もあった。仕事で一日中立ちっ放しだったので、帰りに座れないと若い当時でさえもちょっとこたえた。「仕事は?」というと、まずどこかの山の中で研修があった。何をしたかよく覚えていないけど、座禅を組んだ事だけは覚えている。それから配属先の希望を書きなさい、と言われた紙に、第一希望「紳士服売り場」と書いた。何故そう書いたのかも覚えていない。結局配属先は一階の化粧雑貨に決まった。お化粧をビシッと決め込んだお姉様方の間に、こじんまりと位置する化粧雑貨売り場。鏡やポーチ等を売っていた。それまで自分自身で買い物をした経験も殆どなく、接客などスムーズにできるわけもなかった。なのに、同じ売り場の先輩達は、優しく色々と教えてくれた。接客、レジ、商品の補充。これが最初の仕事だった。仕事にまだ慣れていない5月、博多どんたくがあった。新入社員は招集され、お揃いの服を着させられ、ボンボンかなにかをもってパレードに参加しなければいけなかった。幸いやる気のない私は、お揃いの服を最後に貰いに行ったので、サイズが合うのがなく、Tシャツに短パン、とお揃いの服よりも、ましないでたちをする事ができることとなった。私の役目は風船配りだった。その頃すでに「これは私がやりたいことじゃない」と思い始めていた。入社1ヶ月にして、である。それで早々に人事担当の人に「辞めたい」と言いにいった。なんとも根性のない人間である。担当の人は「ご両親には相談したの?」と言われ「していません」と私が言うと、まず両親と話し合いなさい、と諭され帰された。両親には言えなかった。入社早々「辞めたい」なんて。

博多どんたくの日、私はとんでもない行動にでた。スポーツバッグに身の回りの物を入れ、岩田屋でなく、福岡空港へ向かった。空港から人事に電話し「辞めます」と言った。東京行きのチケットを買い、搭乗手続きを済ませた。東京に行けば、なんとかなるかもしれない、と思った。飛行機の出発時間まで暫くあった。その間、色々な事が頭の中を駆け巡った。まず、両親は激怒することだろう。(何も言わずに飛び出したのだから)化粧雑貨売り場の人は呆れるだろう。でも東京で立派になれば、そのうちみんなわかってくれるだろう。いや、ローンで買った車はどうしよう?体も心も重く、八方ふさがりのような気がした。とにかくローンで買った車が気になった。結局東京行きの飛行機には乗らなかった。チェックインした荷物だけが、東京まで行った。

1:落ちこぼれてしまった高校生活

中学生の時までは授業をちゃんと聞いて宿題をしていたら、テストではちゃんと良い点がとれていた。高校は進学校に無事合格した。そこ迄は順風満帆であった。ところが、高校生活が始まり数ヶ月たった頃、授業がちんぷんかんぷんになっているのに気づいた。よく考えると、頭の良い子が入学し集まってきているので、努力しなければ落ちこぼれることは言うまでもなかったのだが、それに気づく迄に暫くかかった。理数系は手遅れだった。定期テストはなんとかごまかせても、数学の実力テストは、最初にある数問だけ解き、その他90パーセントを占める計算式等、手のつけようがなかった。毎朝の英単語テストは毎回不合格で、放課後部活前に職員室に行き、追試を受けていた。英語の授業の時に答えられなかったら、まず一回目は起立させられ授業を受け、二回目答えられなかったら椅子の上に正座、三回目は廊下に立たされたような気がする。いつもドキドキしながら、難しい問題が来ませんように、と願っていた。私の高校生活は今思えば結構暗い。部活は小学、中学、高校と剣道部だった。それだけは続けた。何度もくじけそうになったが、その度に励ましてくれた母には今でも感謝している。一つの事を続ける苦難、喜びは、剣道を通してしっかり学ぶことができたように思う。とはいっても、私の成績が上がるわけもなく、なんとか毎日ごまかしながら、辛うじて高校を卒業することができた。周りのみんなは大学へ進学して行った。就職すると言うと、皆が「なんで?」と言ったが、私はとにかく「勉強」から逃れたかった。そして自由になり、働いてお金を稼ぎ、思い通りに生きて行きたかった。勉強から解放されて自由な世界が私を待っていると信じていた。仕事を始めるまでは…

TOEIC 980、英検1級合格、ペラペラ喋る、どうすれば可能?私の辿った回り道

はじめに

巷では、英会話の本、CD、テレビ番組、数多い英会話学校…とその気になれば、英語を学習していく環境は十二分に整っている。それなのに未だに日本人の英語でのコミュニケーションの能力はぱっとしない。読み書きはできるのに、英語で話すとなると、急に無口になる。「英語が話せるようになる必須条件」私は次のように考える。

1 恥をかく
私たちは英語を母国語としていないのだから、間違えて当たり前。大切な事は相手としっかり意思疎通をしようという気持ちだ「間違えたら恥ずかしい」「これって的確な表現?」と心配するよりも、自分が言いたい事、自分が聞きたい事、を明確にしていくこと。日本語でもしっかり意思疎通できない人が英語で意思疎通しようとしても不可能な事は言うまでもない。

訳さない
英語を日本語に、日本語を英語に、頭の中でくるくる訳そうとしないこと。そんな難しいことは、通訳の人に任せておけばよい。自分がコミュニケーションしようとする場合、知っている言葉の範囲内で、英語で考え英語で話す。これが原則だ。むやみに難しい文法や単語を使おうとしない事。日常会話に、ビジネス書にでてくるような言葉が飛び出してきたらおかしい。

継続力 短期間でペラペラになる魔法はない
世の中、そう甘い話はない。英語学習も同様。英語の音を聞き分けられるようになるには、1000時間英語を聞く必要があるらしい。コツコツと継続して努力すれば、誰だって話せるようになるし、努力しなければ話せるようにはならない。いたって単純な話だ。勉強方法については、本文で紹介していく。

「必須条件」は上記たったの3点だ。といってもこれを克服できるかできないかで、「話せる」か「話せない」かの大きな違いが生まれる。

まずは、恥をかく、訳さない、を肝に命じ、継続的努力をしていく。するときっと道は開けて来る。

本文では、20才で英語の学習を始め、今日(只今43才)迄、私が辿った回り道を、小出しに紹介していきたいと思う。「こんな平凡な人でも、継続していくことで、一つでも取り柄ができるんだな~」「私にもできる!」と、感じて頂き、少しでも英語学習の助けになることを願いながら。

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